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ノーミソ刺激ノート

書評やスポーツ、言語に関することを書きます。

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「命を大切に」のおかしさ。

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私は都民なので
明日都議会議員選挙に行くんですけど、
そのために初めて候補者のの予習をしていました。

気になったのが某候補者の「命を大切にする」
という言葉。
最近やたら流行ってますよね。
「命を大切に」って。
この言葉、どこか不安定な、変な言葉だとは思いませんか?
理論的にはわかるような気がします。
「命」があって、それを大切にしよう。という理論。

これって要するに、
たとえば原発があると生活は便利になるかもしれないけど
命が脅かされるよ。それでもいいの?
っていうことだと思います。
何か政策があって、それによって生活が便利になるけど、
命の危機がある。命は大切でしょ?何よりも命を最優先にしましょう。
ということでしょう。

それでも何か腑に落ちない。
道徳観念に問題があるんです。
「命を大切に」というのは、交通標語のように簡単な標語で、
道徳的な言葉です。
犬や猫も命ある生き物。だから慈しみましょう。
という当たり前な話。
しかしここで気になるのは、
「命のないもの」は大切にしなくていいのか
ということ。
日本には八百万の神の信仰があり、
物であっても大切に扱おうという道徳観念があります。
「いただきます」という言葉には
作ってくれたお母さんや、稼いでくれたお父さん以外にも、
米を作ってくれた百姓さんなどの第一次産業から第三次までの人々、
ひいてはその米や魚や肉や野菜そのものに対しても
「いただきます」という言葉は込められているのです。
いや、そこまで?
と思う人もいるでしょうが、
それは想像力が希薄なだけで、
自分が牛を仕留めたり生の野菜を採って食べるときにも、
「いただきます」は使うはずでしょう。
ちなみに外国語でそのような言葉があるということは聞いたことがありません。
中国、台湾、オーストラリアに行ったときは、
みんな黙って食べ始めましたし、
食べ終わりの言葉は
”I'm full”(英語)
”吃飽了”(中国語)
で、両方とも「おなか一杯」という意味です。
他者に対して感謝がない、自分だけで完結した
薄っぺらな言葉ですね。
この時点で日本人は命は大切にしていますし、
世界中のスポーツ選手の中でスポーツ用品を一番大切に扱うのは
日本人だというのは有名な話。
電子書籍が世界で流行っていてもペーパーの書籍を
いまだに多く活用しているのは日本人が一番多いとか。
「もの」使うことによって無意識(霊的)に技能や知識を会得できる
ということを知っているんです。
「もの」の力を無意識に生活の中で感じているんです。

長くなりましたが、
日本人は自分に関係しているすべてに感謝し、大切にする文化なので、
命を大切にするという言葉は合わないのです。
というか論理的にも実は破綻しているんですが。

「命を大切に」の「命」とは、
その根源は何かというと「自分の命」です。
「人の命は地球よりも重い」といった馬鹿宰相(福田赳夫
がいましたが、なぜバカかというと
ハイジャック相手に身代金と6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行いました。
結果、命を掲げれば何でもしてもいい
という理屈が通るようになり、
北朝鮮拉致被害が急増したのです。
馬鹿でしょ?

ここからちょっと難しい話になります。

命と地球は比べ物にならないし、
命は「もの」で
地球は環境という「空間」です。
空間がなければ「もの」は存在しません。
統治者が讀むべき古典『老子』には
「天地は仁ならず」
という言葉があります。
聖人である統治者は慈しみの情なんかは持たない、
非情であるべきだ
という話です。
統治者には民衆が持つべき人間同士の交流徳目である「仁」は必要なく、
私を棄てて天地と一体になり、空間と一体になるべきだということ。
要するに「人民」(物体)と「為政者」(空間)は別物なんです。
空間のあるマクロな世界には時間が存在するが、
空間がないミクロな世界には時間がないことと同じです。
為政者とは人民を抱える「空間」であり、
人民には空間があるように見えますが
空間自身にはそれを抱える空間がありません。
なので時間も物体(人民)にだけに存在します。

存在の世界、次元を別物にしないといけないので
為政者は愛情を持ってはいけないし、
「命」なんていう「時間」のような不安定なものを
偉そうに掲げるのはかえって馬鹿なんです。

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