ノーミソ刺激ノート

読書やスポーツ、言語に関することを書きます。

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本を1冊読むとどうなるか

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何が変わるのか

「本を読め」とよく言いますが、たかが1冊読んだところで何が変わるんでしょうか。

そういう疑問って誰でも持ちますよね。

よくある解答はこんな感じでしょうか。

 

  • 言葉を覚える
  • 世界観が変わる
  • 人の気持ちが分かるようになる
  • 頭(成績)がよくなる
  • 文章力が上がる
  • 過去の偉人と会話ができる
  • お金持ちになる

 

決して間違いではないと思います。

けど、もし私が本を読むことが嫌いだったらイマイチ引っかかりの無い解答だと思います。

中でも本を読まない人に対して一番効果があるのは「お金持ちになる」でしょうか。

ブログネタでもそうですけど人間は目の前の利益に飛びつくのでお金ネタは分かりやすいんです。

 

「世界の富豪はみんな本を読んでいる」っていう売り文句ですね。

そんなの当り前で、読書してなければただの凡人ですから、魔法じゃあるまいしゼロの状態でお金が湧き出てくるわけもありません。

それ以外はあんまり想像できないですよね。

 

結局何かといえば、「語ることはできない」ということです。

全てのことを語ることが出来ると思ったら大間違いです。

言葉には限界があるんです。

この回答は逃げのようですがそうだとは思いません。

 

「人間はなぜ生きるのか」

「人間はなぜ人を愛するのか」

 

こういうようなことは回答が出来ないでしょう。

一応の回答はできるかもしれません。

が、みんなが納得できるものは無いでしょう。

 

「本を読んでほしい」

という気持ちはありますが、それで読めるという伝家の宝刀は無いんです。

じゃあ、何かといえば、「共感」です。

 

人は共感の力があります。

「本を読むといいよ」

と思わせたいなら、そういう自分に共感してもらうことしかありません。

あなたも本を読みたいと思えた本当の理由は共感したからじゃないでしょうか。

 

「共感」することは「変わる」ことですよね。

読書と登山

読書は山登りと同じで高い所にいる人の気持ちはわからないです。

そして、いざ高い所に行くと「自分は今までこんなに歩いてきたのか」と思うように、距離を進んだ感覚が現状の感覚とずれてるからなんですね。

 

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それは視覚的に距離感覚を見ることができますから感じることができますけど、読書となればそんな感覚を味わうことはできません。

【関連記事】

海外と過去が距離感が一緒な理由

 

登山における

「今からこの距離登るのか」

という感覚と

「いざ登ってしまうと、それほど辛くはなかった」

という感覚があるじゃないですか。

 

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」って言いますけど、人間は過去の辛さを意識しません。

経過のことをあんまり意識しなければ今その場にいる点、つまり現状しか意識ができません

ですから読書も読む前から「この厚さを読むのか」と思っても意味がないんです。

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登山は何となく何も考えずに歩を進めることができます。

そもそも登山という環境が整った中、そうせざるを得ないない場所ですから健康な状態であれば普通はゴールできますよね。

 

一方、読書は止めることが簡単にできますから挫折が簡単なんですね。

本をたくさん読むことを目標に掲げている人がいますが、たくさん読まなくていいんですよ。ほとんどの人がやる気になった時にそういう風に意気込みます。

 

ほんどの人がやることは失敗するので、もう一つ考えて別の道に行きましょう。

 

千里の道も一歩からと言いますが、どんなことだって、はじめの一歩です。

そして何をするんだってスタートからゴールまでの距離感自体は自身で感じることはありません。気づけば他の人より語彙力があったりするだけで、徐々に距離が開いていることを実感することはありません。

 

以前「1000冊読むと~」という記事を書きましたが一々そんな冊数を考えていたらいつまで経っても一冊も読めないものです。

 【関連記事】

本を1000冊読むとどうなるか

 

哲学書1000冊読んだらどうなるか

 

時間が速く流れるように思っても1分でさえなかなか過ぎないのと一緒です。

相対性理論ってやつですね。

一冊一冊を楽しむしかないんです。 

 

たとえ、わからなくても

「世の中にはこんなにわからない本があるんだ」

ということが分かったことになります。

「わからない本がある」というのはショッキングなことです。

 

しかし本として出版社から出されているものであれば大抵は世の中に認められるべきもののはずでしょう。

それなのに自分はわからないというのはどういう事でしょうか。

読書と芸術

それはまだ自分が「良いものが分からない」ということです。

私は純文学ばかり読んでいますがそれは「判らないことに出会いたい」という欲望からです。一方大衆文学をあまり読まないのは分かることを読んでもあまり刺激を感じないからです。

 

中高生ならいいかもしれませんが、もういい大人になっても大衆文学ばかりでは言葉の刺激が足りないと思います。

純文学は言葉の芸術です。

 

大衆文学と対を成してるだけあって大衆的ではない(普通の人にはわからない)芸術なんです。

人間は社会的動物と言いますが、みんながみんなそういう高い次元に行ってしまったら息苦しいですよね。

 

「難しくて読めない」と言っている人が多い中、読める人がいるというのが正常な社会であって皆が知的である必要がないんです。

歴史的に文盲(古典的教養がない人)は馬鹿にされる対象です。

けど、そういう人がいないと教養人も生まれません。

 

なぜなら人間は常に比較をしています。

だから、比較的教養がある人になりたいなら一冊読み始めればいいんです。

小説の芸術性って何だ

人によってはそこまで言葉にこだわりがあるわけではなく、いい話が読みたいだけという人も多いでしょう。

そういう人は無理して芸術作品に触れずに誰でもわかるものを読み続ければいいと思います。

誰でもわかるものじゃないけど一定の層にはわかるものが芸術です。

 

芸術って何に価値があるかって一回性の特殊なことなんです。

ですから科学的に何回でもありうることは芸術にはなりえないんですね。

いくら素晴らしい絵があってものそコピーは商品価値はあるかもしれませんが芸術的価値は認められないのと一緒です。

 

読書の芸術的価値というのは紙に印刷された文字にあるのではなくて読んだ後の感覚、読者の中の気持ち以外のものではありません。

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