ノーミソ刺激ノート

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"I love you"が「月がきれいですね」と訳せる理由

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〈日本哲学〉入門講義

日本人の考え方

夏目漱石が「そう訳せ」といった話は結構有名です。

日本人に心情としては「わかるなぁ」とは思うでしょう。

 

ではなぜ、そう訳しても「わかる」のか。

それは、

 

「日本人の考え方が『主客未分』だから」

 

「主客未分」(しゅきゃく みぶん)とは、

「自分」(主)と「相手」(客)が分かれていないということ。

ヨーロッパ的な考え方と、日本語的な考え方では自分と相手の分別の仕方が微妙に違ってきます。

 

ここは少し難しい所ですが、ヨーロッパでの相手と自分と分別の仕方が結構分かれているのに対して、日本語ではそこまで明確に分けない気分があるんです。

それを言葉にしたのが「主客未分」という言葉。

 

英語だとIとかYOUとかが厳密に分かれていますが、日本語では一々そんなこと言わなくてもいいじゃないですか。

 

「主客未分」は哲学者の西田幾多郎の作った言葉で、仏教の禅の考え方を元にした言葉です。

仏教というとインド、中国もそうだろうと思うでしょう。

確かにヨーロッパと比べれば日本と考え方が近い所は有ります。

しかし禅の考え方が一番精錬されていったのは日本です。

 

実際、禅の哲学がヨーロッパに行ったのは日本人の鈴木大拙の本がもとで、それがヨーロッパではやって「マインドフルネス」になりました。

善の研究 (岩波文庫)

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つまり愛を語る時に、

「私が」「あなたを」「愛してる」

というように説明的な言葉を必要としないで、そのまま、

 

「月がきれいだねぇ」

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という「様子・印象」を、そのまま、ドンと「一緒になって」感じているんです。

これが「愛している」って感覚。

 

言語的な感覚というものはそういうものです。

ですから翻訳は機械的に訳すことはできないんですね。

これは日本語の特性にも表れていて、

 

  • 一人称が多い
  • 「主語」が無い

 

ということが関係しています。

分かりやすいのは「一人称が多い」ということ。

英語には”I”しかありませんが、日本語には「私・俺・僕…」など物凄い種類がありますね。

 

なぜなら、相手によって関係が変わるから。

英語は絶対的な視点、日本語は相対的です。

【関連記事】 

日本語に一人称が多いのはなぜか。

 

「視点」の違いがわかりやすいのは、川端康成の『雪国』の冒頭は、原文ではこうです。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 

この状況は、カメラが列車の中に有って、徐々にトンネルを抜けて、真っ白になっている映像が浮かび上がるでしょう。

一方、英訳はこうなってます。

 

The train came out of the long tunnel into the snow country.

(列車は長いトンネルから雪国に出た。)

 

これはカメラが列車とトンネルの上にあって、「神の視点」から見ている感じでしょう。

日本語の場合、もうひとつ西田幾多郎の言葉でいうと「ものとなってものを見る」ということ。

 

つまり対象と離れずにそのままを見るってこと。

 

日本人の感覚は、そのものの視点に立つ感覚が自然です。

英語の感覚では、普遍的な視点から見るのが普通なんです。

だからこそ、英語には「主語」という、大きいものが文には必要なんですね。

 

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日本人が作る「場所」

「主語が無い」っていうのはピンと来ないかもしれません。

しかし日本語には「主語」があるわけではないんですね。

 

「私は太郎です」

という場合、「私は」が主語だと教わった人が多いかもしれません。

しかし、実際はそうではありません。

 

「私は」は「主語」ではなく「主題」なんです。

 

  • 「主語」:述語と関係している、繋がりが深いもの
  • 「主題」:その後の語と直接結びつかない、トピック。

 

つまり「主題」は「場所」なんです。

ですから直接関係はありません。

 

日本語の「~は」というのは「主語」ではなく「主題」、つまり「トピック」を表します。
「トピック」の語源はギリシャ語の「トポス」(場所)。

 

つまり「~は」は、言語的な「場所」を開く呪文です。

これに関連して日本語に独特の表現があるんです。

それが

 

  • うなぎ文:「僕はウナギだ」
  • こんにゃく文:「こんにゃくは太らない」

 

「僕はウナギだ」という場合は、メニューを店員が「何にします?」と聞いたら、そう答えて問題ないでしょう。

でも英語にすると

 

”i am eel”(私はウナギです)

 

と、「お前人間だろ」と突っ込まれてしまう変な文になっちゃうんですね。

英語の場合は、主語と述語がピッタリ合ってるからです。

 

しかし日本語の「僕は~」の場合は、それを言った時、次のものと繋がっているのではなく、「僕は」の空間、場所が広がるだけ。

 

「こんにゃく文」も似たようなことです。

これは、「僕は」「こんにゃくは」という日本語は「主語」ではなくて、そのことを「主題」として話しているってこと。

 

大きく「場所」を提供しているだけで、次の言葉にガッチリ関係しているわけではないんです。

 

じゃあ何で「日本語には主語が省略されてる」って変な言い方をされるかといえば、「言語学」という学問自体が英語圏からの輸入だから

ヨーロッパ語圏では主語があって当然です。

 

だからその前提に立ってしまうと「省略されてる」ように見えてしまったんですね。

日本語はそもそも、ヨーロッパの言語のような言語体系じゃないんです。

 

日本人の考え方は「自分がどうした」ではなく、「一緒の感覚にいる」ということが「愛する」理由なんですね。

【関連記事】 

日本語が世界で難しいと言われる理由 

 

日本語に一人称が多いのはなぜか。

 

【語彙力アップ】日本語の歴史について 

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