ノーミソ刺激ノート

読書やスポーツ、言語に関することを書きます。

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1000冊読むと自分は変わるのか

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虫の虫

1000冊読むと変わります。

しかし変わったことは分かりにくいです。

なぜなら、本を読むと「世界観」が変わるからですね。

世界の見方そのものが変わるので、世界自体が変わったことが分からないのと一緒です。

 

じゃあどういうキッカケで分かるかといえば、他人の世界観に触れた時ですね。

他人が漢字が読めなかったり、言葉を知らなかったりします。

でも自分は漢字が読めたり、言葉を言い換えることが出来るようになったりします。

 

はじめの内はそういう本を読んでいない人を「こいつ馬鹿じゃないの?」と思うんです。

私の体感では100~1000冊くらいではそういう感じです。

ただし、読む本にもよりますけどね。

 

小説や新書をバランスよく読めばいいと思いますが、ビジネス書や自己啓発本は0.1冊くらいの価値でいいと思います。

それも、世の中に出ている、そういうものは10冊程度読めばOKなので、100冊も読むのは止したほうが良いです。

 

「限界効用」(飲み会のビールの1杯の価値がどんどん下がっていく感覚)として自己啓発本ではジャンジャン下がっていきます。

基本的に同じことが書かれているからですね。

 

けど、小説や思想書では、逆に価値が上がっていきます。

なぜならドンドン分かっていって、世界が楽しく解釈できるようになるから。

 

大体小説を100冊くらい読んだら、高校生~大学生くらいの知能差な気がします。

あくまで私の体感ですけどね。

 

本を読んでいる人は読んでいない人を馬鹿にしがち。

でも、よくよく思い出してみると、

「あの本を読んでいなかったら自分もあの言葉を知らなかった」

という事に気づきます。

 

言葉を知ると認識自体が変わるんです。

ですから横柄になる恐れがありますからそれは絶対に気を付けましょう。

 

本を読むようになると「本は読むべきだ!」といって、「読まない人」を馬鹿にしたりしてしまう傾向があります。

しかし本を読める環境にあるという事は結構運が良いことなので、バカにすることは止めましょう。

 

本を読もうと思って読める環境、精神性になるということは環境によります

ですから「本を読む」という事を無理に強制するのもマズいです。言い方を間違えると嫌われますから気を付けましょう。

 

それを意識的に分かるようになるには、読んでいない状態の世界観をしっかり覚えておくことです。

でもそれは分かりづらいですから、文章でもブログでも残しておくといいですね。

 

私は10年ブログをやっていますが、10年前とは話にならないほど自分が変わっています。

それは人生経験でもそうですけど、読書量で変わっています。

 

もうブログを書くことが習慣化されていますから、1か月前に書いたブログでさえ、「こいつ馬鹿だな」と思えるんです。

そういうことが分かりやすいから書いたほうが良いです。

読み方の例

私としては年に300日、図書館に通っていて、月には、90~300冊読んでいます。

何でこんなに幅があるかといえば、1冊をしっかり読んでいないから。

ここが大きなポイントです。

 

たくさん読んでいるのと、ほとんど読んでいないのとでは「読み方」が全然違ってくるんです。

ほとんど読んでいない人は、

 

  • 文字の読み方
  • 新しい知識の仕入れ方

 

が全然違ってきます。

つまり本を読むこと自体の技術が違うんです。

本をたくさん読んでいて、同じ著者、同じテーマに関する別の本を読んでいくと「大体同じことが書かれている」という事が起こります。

 

その「同じだ」という所が面白いんです。

なぜならたくさん読んでいるからこそ、そういう所が分かるからですね。

例えば養老孟司の本では「虫取り」の話や「C.Wニコル」の話がよく出てきます。

 

当然、本業だった「解剖学」の話はよく出てくるんですけど、そういう事よりも話を進めるための道具が出てくるのが、何となく楽しいんです。

持ちネタのような感じですね。「でたぁ!」みたいな感じで。

 

たくさん読んでいくと、技術書などの実用書では、もうたくさんの本で読んだ話が出てきます。じゃあ意味ないかと言ったらそうではありません。

一つの概念でも、2度目、3度目に見る言葉の印象が違ってきます

 

色んな言葉に触れることによって、自分自身がその概念を説明できるようにもなってきます。

ですから「この分野に詳しくなりたい・話が出来るようになりたい」とまで思うのであれば、一つの分野の、色んな本を読んだほうが良いんです。

 

その話をどの程度飛ばして読むか、その著者によっては、「既に知っている話」があるけど、解釈は人それぞれですから、そこの細かな「違い」に注目して読むという事があります。

 

それは「バカの壁」を超えるっていう話です。

養老孟司『バカの壁』では、「知っている」と思っている知識を、「知っている」として舐めた態度で受け入れるなってことが書かれています。

 

バカの壁 (新潮新書)

バカの壁 (新潮新書)

 

 

つまり馬鹿かそうじゃないかは、知っている情報をどう解釈できるかっていう話。

微妙な「差」がわかる

例えばホラー映画愛好家は、ホラーストーリーのパターンは既に知り尽くしてるけど鑑賞します。なぜ新作を見るかといえば、そのパターンを「どうズラすか」っていう所を見ているといいます。

 

大よその流れは出尽くしているのに何で見るかといえば、どうズレているか、どう表現されているのかっていう所は、絶対に差が出るんです。

これが「解釈」っていう奴ですね。

 

解釈する箇所がどう出るかっていうのは、その人の個性がもろに出ます。

「センス」と言われるものがそれです。

 

文学でも、私は大学院まで行って文学を学びましたが、文学のストーリーは変わりません。

ストーリー重視なのは大衆的なエンタメ小説ばかりで、文学研究では基本的に扱われません。

 

例えば中国文学であれば、小説ではなく「詩」を研究することが本筋だという事さえ言います。

それは何でかという年はストーリーではなく、表現そのものだから、

 

  • どういう意志で作品を作ったのか、
  • 作者はどういう思想を持っていたのか
  • 歴史背景は?

 

という事を突っ込んでいくわけです。

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