理由
結論から言うと「語彙力を上げるため」。
そして「自分を助けるため」。
語彙力を上げるとは決して単語量を多くするという事ではありません。
知っている言葉が少ないと、その言葉しか使えません。
頭の中の言葉の数が多いと、使わない言葉を持つことが出来、余裕を持つことが出来ます。
例えば楽器のドラムをやる場合、筋トレが必要だという事を聞いたことがあります。それは決して筋肉を使うためではなく、「力を使わないため」。
つまり力を抜くという事は持っている筋肉の量が多くないと抜くことも出来ません。
同じように持っている言葉の量が少ないと、言葉の数を少なくすることはできません。
話がダラダラ長引く人が居るじゃないですか。
それは言葉の筋肉量が無いので力を抜くことが出来ず、持っている筋肉をフルに使わないと話すことが出来ないんです。
たくさんの言葉を知っていると、知っている言葉を実際に使うのではなく、頭の中で使いながら別の適切な言葉を選ぶことが出来ます。
言葉を選ぶと、その本当に伝えたい気持ち、書くとなる部分を人に伝えやすくなります。しかし選ぶことが出来ないと最近の流行言葉、聞いたことのある言葉を使うばかりでどうしても上っ面になってしまいます。
現代語だけではどうしても上っ面になりがち。
表面上の人を助ける言葉が多く、他者の内面や自分の感情を説明することが難しくなります。
巷で売っている「語彙力を増やす」系の本では、そういう言葉を扱ってはいますが、不十分です。
ああいう物はただデータを増やすだけです。
否定はしませんが、本当の語彙力は「言葉の意味・繋がり」を理解することです。
ただ単純に言葉を知っていても、それを運用できなければ意味がありません。
人を助ける言葉は重要ですが、現代的な人を助ける言葉は客観的で生産的、つまり表面上の手助けが重要視されています。
内面的なことまで踏み込むのは悪とされていますからね。
古典は内面的
しかし古典を見ると内面的な言葉が多いんです。
内面的な言葉を運用することで本当に自分を助けることが出来ます。
ではどうやって運用するかといえば、意味が理解できることはもちろんですが、言葉を繋げられる、文章を作れることが重要です。
それには現代語だけでは不十分なんです。
現代語は現代の考え方、つまり経済的に作られた言葉です。
一方昔の言葉を見ていくと、詩的、感情的な言葉が多いんです。
なぜなら昔の言葉を運用していた人は文学的な人が優秀とされていたから。
つまり教養主義的なのが古典の言葉です。
現代では資本主義的、客観主義的ですから、主観的、感情的な言葉はどうしても入るスキがありません。
言葉の運用には時間が関係しますからね。
そういう経済的な言葉を使っていると、主観はないがしろにされます。
だから感情を自分で整理しようにも「客観的であるべき」「経済的であるべき」という、「現代的な道徳」が邪魔をして、主観は「悪」として捨てられます。
「生産性」「これだけ」というように数を強調するのも客観的で資本主義的な言葉です。
もちろん否定はしませんし、重要な考え方ですがそれでは疲れてしまいます。
人生はそういうスケールの小さなことではないんです。
勉強はスケールのデカいこと
日本人には
「漢文て中国の古典だから日本語で勉強する意味あるの?」
とか思われるかもしれません。
そう思うのは普通なことです。
しかしここで勉強しなければ、日本語がどういう歴史で変化していったのかが分からないんです。
それが分かると語彙力が付きます。
語彙力がつくとは決して難しい言葉を暗記していくことではありません。
そんなのAIがやることです。
語彙力とは「言葉の使い方・感覚を感じて運用すること」。
言葉を運用するのはAIでもできますが感じることはできません。
なぜなら「感じる」とは何かという事を人間が解明できていないから。
AIが出来ることは大量の情報を処理すること。
つまり計算機の延長でしかありません。
お金を稼ぐにはそれだけでいいかもしれませんが、語彙力は金稼ぎのためにあるのではなく、人生そのもののためにあります。
生活していく、お金を稼ぐのであれば要らないかもしれません。
勉強はお金を稼ぐためにするなんてことは無いんですよ。
そう思っている人もいますけど、それは戦後、特に収入が少なかった時に、目の前にぶら下げるニンジンとして、勉強のきっかけにしようとした考え方です。
本来、勉強というのは「人としてどういう風に生きるか」を自分で決めることが出来るようになる、「お金儲け」とか小さいとこではない、スケールのでっかいことなんです。
どういう風に生きるかはその人の「言葉」で決まります。
その言葉は、現代語だけ使えばいいことではありますが、古典を読んだり、ちょっと前の小説を読んだときなどに感じる言葉が違う事によってその人の精神性に大きく影響を与えます。
つまり、言葉は自分で発するという事と同じくらい、「人の言葉を理解する」という事が重要なんです。
人の言葉を理解するってことは「他者を理解する」ってことです。
他者を理解することは、「人としてどう生きるか」ってこととつながりますよね。
漢文は日本語と近い関係がある
漢文は現代中国語よりも、日本語のほうが近いんです。
幾ら現代中国語(普通話:プートンファ)を勉強していても漢文は読めません。
普通話は、「清」の時代に支配していた満州人の話す満州語と北京語が混ざったもので、「k」の発音(入声:にっしょう)がありません。
漢文に書かれているものは少なくとも「明」以前のもので「k」の発音があります。
もっと発音に関して分かりやすく中学生でやるような皆さんに馴染みのある漢文を例に挙げると、
春暁 孟浩然
春眠不覺曉 春眠暁を覚えず、
處處聞啼鳥 処処啼鳥を聞く
夜来風雨聲 夜来風雨の声、
花落知多少 花落つること知りぬ多少ぞ
の、それぞれの行の最後の文字は日本語で音読みすると「韻」が踏まれている事が分かります。
暁(ギョウ)
鳥(チョウ)
聲(ショウ)
少(ショウ)
しかし、普通話で読むと
暁(xia3o) シャオ
鳥(dia3o) ディアオ
聲(she1ng) シャン
少(sha3o) シャオ
しっかり韻が踏めてないんですね。
昔の中国語の音を日本が輸入し、現代中国語ではその音が変化してしまったことによるズレが生じているんです。
→B(現代中国音)
A(古代中国音)
→A’(日本漢字音)
このような言葉の変化による分かれ道はヨーロッパの言葉でもよくあることです。
それは気が向いたら書きます。
そもそも昔の書き言葉は漢文でしたから『古事記』や『日本書紀』が漢文で書かれているし日本文学を勉強する場合はどうしたって漢文の知識は必須なんですよ。
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