ノーミソ刺激ノート

読書やスポーツ、言語に関することを書きます。※本ページにはプロモーションが含まれております。

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言葉を取り込む

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前回の記事で

日本の英語教育

について書きました。
その前の記事では

知識と体験と徳の違い

について書きました。
後者では、
現在の日本でも実際にネイティブと会話するよりも
文面上のやり取りの方が多いから
文法重視の教育も悪くないことを書き、
前者では
知識的経験と体験的経験の違いについて書きました。

間違ってほしくないのは
メールのやり取りだけで
ネイティブを理解した気になってはいけないということ。
メールの相手が例えネイティブであっても、
オーラルコミュニケーションには劣るんです。
だから本物と実際に対面して、コミュニケーションを取った方がいい。
なぜか。
実際に触れ合いののコミュニケーションを取ると
相手に対して愛着が沸くんです。
なぜ愛着が沸くか、
人と出会うことで、その人が自分の人生の一部になるからです。
人は自己愛を通じて他者を好きになります。
自己の中に他者がいることによって他者を愛するんです。
なぜなら
「自己」とは「過去の自分」
のことだから。
若者が自分探しをしても自分が見つからないのは過去がないから。
その過去の中に他人がいることによって他人を愛するので
メールのやり取りよりも対面したほうがその経験の濃度が濃い。

私の体験上、
書籍やネットや噂程度の情報も
間違った情報は少ないですし、(左から順に正確)
中国はイメージに近い中国だったし、
台湾も、オーストラリアもそうでした。
ただ、それは「人の体験を通じて」知るということ。
自分の体験ではないのです。

聖書に
”diriges proximum tuum sicut te ipsum. ”(原文)
”thou shalt love thy neighbor as thyself”(古英語)
「汝、隣人を汝自身の如く愛せよ。」(レビ記19章18節)
とあります。
逆説的に言えば、隣人を愛することは難しいということ。
じゃあ愛するにはどうすればいいか、
相手を自己の人生の中に取り込めばいいんです。
言葉をものにするとはそういうことです。

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