少数の人しかわからない芸術的な文学を純文学といい、大半の人が喜びそうな簡単な文学を大衆文学といいます。
でもこういう風に説明されても普通はわかりません。
本当のところは沢山読まないとわからないんですね。読書はスポーツと同じで体で体験するものだからです。
規定に書かれているのは、芥川賞が純文学で直木賞が大衆文学とあります。が、「純」とは何ぞや?「大衆」とは何ぞや?と思った人は多いはず。
というかそれ以外のこういう区別されたものは見たことがないので全員がはじめは思うことでしょう。
芸術ってほとんどの人にはわからないんですよ。
こういうのって小学生の頃はなんでいいんだろう?と悩んだものです。でも見てるうちにわかってくるもんです。もしくは教養、事前知識がないと楽しめません。
つまり知識や鑑賞経験が積み重なってないと感じることができないのが芸術です。
「感じる」というのがポイント。芸術は感じるもので理解するものではありません。
理解が道程にあることはあれど最終的に「あーいいなぁ」と思う感じが芸術です。
ですから芸術家はお金儲けが難しいのです。
一方、大衆文学は大した苦労もなく、「楽しい」と思えるものです。
ですからほとんどの人がおもしろいと思えます。だから商業的に成功しやすいのです。
じゃあどうやって純文学を楽しめばいいんだ!
というのは沢山読むことなんですが、ただ闇雲に読んでも「何を言ってるんだ」とわからな過ぎて怒りがこみ上げる場合もあります。
文学上の芸術ってどう読めばいいかというと、ストーリーを読むのではなく、言葉の表現を感じることに重きを置いたほうがいいのです。
純文学作品ではストーリー上何も起こらないことが割と多くあります。
しかし心情表現だったり、風景描写、作品全体の繋がり方、隠されているメッセージやたくさんの解釈の可能性を鑑賞して楽しむものです。
解釈の可能性というのは一回読んだだけではわからないような意味の多様性のことで何度読んでも発見があり、人によって解釈が変わる余地です。
ですから一冊でいくらでも楽しめるのです。
なんでそんなものを楽しめるかといえば人生そのものも解釈は様々ですよね。
人生を最悪で生きにくいものだと思う人もいれば一方、最高で楽しめるだけ楽しもうとする人もいて、その間にグラデーションのように多様な人生解釈があります。
誰一人として同じ価値観、解釈を持っている人はいません。
しかし人生は一度きりで、人生とはこういうものだと人一人の人生観では多様な価値観を感じることは難しいのです。
しかし文学を読むことによっていろんな人生を追体験することができるのです。
現代は速読ブームで、月に100冊読んでますとか一月に万冊読むのが目標とかいう人もいますが純文学作品は基本的に速読はできません。なぜなら各表現に意味があるからです。
しかもストーリー性もないものが多いのでさっと読んでもなにがなんだかわかりません。速読もいいですよ。私もやるべき時はやってます。
が、全部を速読にしている人で尊敬できるような言葉を言ったり書いたりできる人を見たことがありません。
私は沢山読んでいる人よりも『源氏物語』や『古事記』や外国の古典文学を説明できるような分厚い教養を持っている人のほうが魅力的だと思います。