真実は理解するものではなく感じるもの
大学院時代、物事の真実に近づきたいと思って3年間哲学をやってきましたが結局今になって思うのは
「真実は理解するものではなく感じるもの」
であるということ。
これで有名な言葉で言えばDon't think ! Feel(ブルース・リー)ということです。
“Don’t think. feel!
It’s like a finger pointing away to the moon.
Don’t concentrate on the finger,
or you will miss all the heavenly glory.”
考えるな感じろ!
それは指で月を指すようなものだ。
指に集中するな、
さもないとお前は栄光に届かないぞ。
といったところでしょうか。
ブルース・リー自身が哲学を勉強していたということがよくわかるフレーズです。
哲学的に言えば西洋ではプラトンの「洞窟の比喩」などの「イデア」っぽいです。
中国だと老荘思想の「道」に似てますが一番は西田幾多郎の「純粋経験」です。
中国人の漢字の考え方って日本人と違うって知ってた? - ノーミソ刺激ノート
に近いんじゃないかと。
哲学とは純粋経験
まあ上の三つだと西田が一番新しいので当然といえば当然です。西田はもちろんそれ以前の哲学込みで「純粋経験」を編み出したんです。
意味は物事を感じた主観客観が分かれる以前の経験「主客未分」という意味。
だから真実というのは学問的に「理解」する以前の「感じてる」状態だといったところでしょうか。
理解はしたとたんに感情が混じり、解釈が生まれるのでその時点で別物なんですね。
西田自身も京都大学出身で禅をしていましたし。
仏教が宗教でありながら哲学的だといわれることを改めて再確認しました。
一方、哲学の究極的なところはそのままを受け入れるってことになると学問(科学)
ではなくなります。科学もサイエンスも分ける、切り分けるという語源なので分けない限りは学問ではなくなるんです。
漢字の学問も行きついている問題
こういう議論は漢字学の世界でもあって白川静が有名ですけど、学問的にはほぼ総すかん状態です。
なんでかっていうと漢字の成り立ちを宗教的なものとして主張したんです。
それのどこがまずいかっていうと宗教となると証明が難しいんですよ。
西洋では宗教を明らかにするために哲学が生まれたくらいなので。
宗教で別に悪かないにしても証明ありきが学問の原則になってます。
一方べつの漢字語源の説では
藤堂明保の「単語家族説」
というものがあるんです。
がこれはこれで面白いといえば面白いし理解できます。
けど、私の感想だと、なんか画一的すぎやしないか。
とも思うんですよね。
漢字なんか面倒なものを作るのにそんな事務作業的な積み重ねで人間の営みは成り立つのかって思います。
人間に限らず物事の実態なんかドロドロしてわけのわからないものでしょう。
学問はそれでいいかもしれないけどでも最終的に行きつく所ってわからない。
ってところになると思うんですよ。分かるための学問ですけど。
養老孟司の本でもご自身で人間の体はわからないというようなことを繰り返し言ってますから。
分かりたい気持ちはわかるけど結局わからないんだよというところで止めることも許容しておく必要があると思います。
【関連記事】