ノーミソ刺激ノート

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純文学をどう読むべきか

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 そもそも純文学ってどこが「純」なのか

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小説というのは詩の延長なんです。

詩って国語の授業で習ったことあるけど、結局何なのかわかんないですよね。

つまり心に思ったことをそのまま書いたものです。

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それの何が楽しいんだって思いますよね?

でもお笑いとかで「くせがすごい」とか「なんて日だ」という言葉がなんで絶賛されたかといえば、普通に使いやすい言葉ではあるけど、一般的に使われなかった表現だからですよね。

 

そういう表現方法を楽しむのが文芸鑑賞であり、最たるものが詩の鑑賞なんです。

そういうものを楽しむ感覚がないと難しいのです。

ですから読者の能力が試される

 

試されるってなんか嫌な言葉かもしれませんが、それがはっきり「わかる!」「おもしろい!」と思えたらその文学は一部攻略できていると思ってもいい。

 

「一部」というのは文学というのは何度も読むものなので、読むごとに解釈が異なって何度でも面白いと思えるものが純文学になり得るんです。

 

作者の独特のフレーズや言い回しに感動できるような人であれば上記の流行り言葉を連発している奴には虫唾が走るはずです。

「耐え難い悪臭で顔を背ける男性」のフリー写真素材

 

(そういうやつって本当にたくさんいます)

なぜかというと言葉には文脈というものがあって、そこをバチっと当てているのが文学だからです。

 

お笑い芸人でこれはすごいという言葉が出せる人はこの時代に合っている言葉や、コントや漫才の短い文脈で合った言葉を使うから受けるのです。

  

お笑いもコントも言葉の当て方は基本的に似ているのです。

適切な文脈があって使うことが趣がある 

そこを見るのが果ては芸術全般の鑑賞方法なのです。

あまりにも訳のわからないことをやって芸術だという小物もいますがそんなもんは見ないほうがいいのです。

 

純文学の場合は時代を大きな範囲でみて文学史的な文脈でここだというポイントがあって、そこを映したものと言っていいでしょう。

大衆文学は現代生きている人の時間スパンで、その文脈にあった流行を当たものです。

 

つまり見ている時間の範囲が違うのです。

ですからどちらがいいという話ではないのです。

純文学をただの訳の分からないものとしてみると見当はずれ

日本では最短の詩として「俳句」がありますけど、俳句って決まりが多くて面倒ですよね。

テレビ番組の「プレバト!」で、だいぶ俳句鑑賞が一般的になりつつありますけど、それでも作ったり鑑賞するのはそれなりの知識がないと楽しめない。

ルールがあるからこそ楽しいんですが、普通はその領域に行きません。

 

でも結局は思ったことを勝手に書いていいのが詩というのには間違いはありません。

つまりストーリーなんか気にしなくて良くて、言葉の表現を楽しむものです。

 

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詩というのは普通、陳腐な表現を嫌います。流行り言葉を聞いたり見たりすると虫唾が走りませんか?

音楽でいうと聞いたことのある表現を他の人がやっていたりすると、つまらないですよね。

 

その人独自の表現方法を鑑賞することが「楽しい」のです。ですから音楽鑑賞とも少し似ているんです。

文学史的に言えば小説は文学として新しい表現方法で、元は短い「詩」が始まりです。もっといえば、文学の起源は「うた」です。

 

何にも考えずただただ心の行くままに「ふふ~ん」って感じで「うたう」、口頭の歌が文字になって「詩」になったんです。

「詩は志の之(ゆ)く所」『詩経』

という言葉があります。

つまり理論もなにもない「心に思ったこと」ってこと。

創作をするのであれば初めは理論も何もなく、ただ心に思ったことを記録してみるのがいいでしょう。

 

理論はあくまで鑑賞する際の手伝いと思えばいいのです。

創作していく中で自分の作品を自己鑑賞し、推敲する時には理論は必要になりますが、初めっから理論をやろうとするとうまくいきません。だからとにかくメモるといいでしょう。

 

 ただ、あくまでどう読むべきかを知らな話にならないので、その鑑賞する理論的な手順を言えば繰り返しになりますが表現方法を楽しむってことです。

表現方法を楽しむ

学校の図書室初めて詩に触れるのは大抵小学三年生くらいだと思いますが、その時に「比喩」って言葉を同時にならうはず。

つまり心に思ったことを言葉に表すんですから、比喩が必要なんですね。

 

純文学で感動するということはどういうことか - ノーミソ刺激ノート

 

なぜかといえば自分の心というものは所詮、誰のもわからないので、みんなが知っているであろう事がらで例えるわけです。

 

純文学を読む際はそのたとえを自分の中で解釈して自分の中で再編集、再解釈する能力が必要です。ですから読者の能力が試されるのです。

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