文学は大きく分けて
- 「純文学」
- 「大衆文学」
に分けられることが多いですよね。
日本の文学賞ではそれぞれ芥川賞と直木賞に相当します。
「自分は頭が悪いから、まだ子供だから」
っていう理由で難しい本を避けてる人がいるんですけど、もったいないですよ。
純文学とは
好き好んで読んでいる人は全員、純文学とか、詩とかは分からないで読んでるんです。
読んでいくうちに、
「だいたいこういうことかな?」
っていう「勘」が身につくんです。
つまり、いきなり分かるものでは無い。
逆に大衆文学はすぐに分かるものが多いです。
つまり大衆文学はその「点」で理解できるけど、純文学は色んな本を読んでその関係性を見て楽しめる「線」で理解するものだと思っています。
「こういうことかな?」➔「そういうことか!」
の繰り返し。
でもこういうことって誰でも経験してることです。
なんせ、赤ちゃんの時は大人の会話を勘で聴いてるんです。
赤ちゃんは純文学的に世界を理解している
そういう感覚って今でも覚えている人いるんじゃないでしょうか。
なんだか分からないけど、前後の文脈でなんとなくわかっていく。
それはあまりにも難しい、抽象的な概念になるとキツいかもしれません。
でも誰でもそういう事を経験していって言葉を獲得しています。
純文学が分かると思って分からなかったらイラつきますよね。
それは自分は言葉を理解していると思っているから。
そういう言葉に対する傲慢な態度を蹴散らせてくれるのも文学の魅力です。
表現(漢字や単語)が難解なものが多いのです。
しかも一読しただけでは話がよくわからないものが多い。
率直に言ってしまえば純文学はストーリーはどうだっていいんです。
もちろんストーリー構成がしっかりしたものもありますが、ラスト部分をきちっとまとめただけで、大衆~ほどの波乱万丈はないのです。
ではどう読むかと言えばその表現まさに「文芸」を味わうことが純文学の読み方なのです。
「純文学」は何か掴もうとしても掴めないんです。
お風呂のお湯みたいに、浸かるもんです。
大衆文学とは
大衆文学は東野圭吾『ガリレオ シリーズ』や浅田次郎『鉄道員(ぽっぽや) 』などヒットドラマや映画になった原作が多いです。
純文学は最近では又吉直樹の『火花』が有名ですが、作家は村上龍や山田詠美や石原慎太郎などの、映画化などはされることがあります。
が、ヒットするというほどではありません。
なぜならドラマチックであるわけではなく、わかりやすい表現でもないからです。
直木賞選考委員の貴志雄介は西村賢太対話集で、西村氏と誰か(町田康だったか)の対話の箇所で「誰が読んでも同じ像」を描けるようでないとダメだと語っていたそうです。
浅田次郎は「わかりやすさ」を重きにおいているとラジオで話していました。
両者の作品を読めばわかりますが確かにわかりやすい。
私は貴志氏は『青の炎 』を読んだことしかありませんが。
一方、西村氏や町田康、又吉氏の『火花』もそうですが、大衆文学ほどわかりやすくはありません。
純文学は役に立つのか
音楽鑑賞にしても、絵画鑑賞にしても、それらの知識があることが目的ではないですよね。
目的は「楽しむ」ことなのです。
でも、面白く感じないんですよね。
面白さをどう見出せばいいのっていうならば、色んな芥川賞作品を読むに限ると思います。そもそも芥川賞は新人賞で、純文学の入り口としては最高の作品なのです。
ワインでいったらボジョレーヌーボーのように、読者素人の入り口のための文学振興のための賞なのです。
だから話題性を重視しているのです。
おススメ純文学
私は純文学が好きですが
すべての純文学作品が好きなわけではありません。
一方、最近の受賞作品では
これらは面白かったです。
世間の評判もよいようです。
でも合わない人は合わないでしょう。
でも、面白くないと感じたらパタッと止めてしまって他の作品を読むことをお勧めします。
たくさん読んでいくうちにまた読みたくなってくるかもしれません。
それが趣味の世界というものです。
図書館だったら席に取るだけ取っといてじっくり読むこともできます。
ちなみに直木賞作品では、『GO』が好きで、映画も映画の脚本も読んでいるほど好きです。