ノーミソ刺激ノート

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純文学に入る前に読みやすいものを読もう(お笑いにも通ず)

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純文学って読みづらい

それって一つは長いからだと思うんですよ。

長いと文脈をどこかで見失ってしまうんです。

なので、結局、筋がつかめずに終わってしまいかねません。

 

ですから先に「詩」を読んだほうが「純文学」ってどういうものかが分かってくると思うんです。

でも、現代詩って言っても長いんですよね。

一番短いのは「俳句」になります。

 

ちなみに世界一短い詩の形と言われています。

が、ご存じ俳句っていうのは「季語」やら「文字数」という決まりごとがあって取っつきにくい。

そこでなんとなく手に取ったのがこれなんですけど。

 

【関連記事】

純文学をどう読むべきか -

芸人と俳人

又吉さんが俳人の堀本裕樹さんに2年かけて俳句を習うって本なんですね。

ですから初心者でも読みやすいんですけど、ここで言われてるのは

「俳句は大喜利」ってこと。

 

これってすごくわかり易い。

一言ネタみたいな感じです。

文学的な面白さってお笑いにも通じます。

 

俳句はいわばリズムネタ的なところがあるんですよ。

漱石や太宰も寄席に通うのが好きでしたし、面白い純文学で言ったら町田康はもともとミュージシャンです。

「文学」と「お笑い」 

たしかにテレビでやってるような大喜利は、わかりやすくて笑えるものばかりです。

けど、俳句となったら大笑いできるような刺激的なものばかりではありません。

「あーこういうことあるよな」

って感じるんです。

 

謂わば小説が映画だとしたら俳句は写真なんですね。

その瞬間を言葉にする

その言葉にされたものを感じるわけです。

 

でも初めっから感じる心の襞(ひだ)があるわけではないので数を読まなければならない。

となると数を読むとなったら小説だと厳しいんですよ。

長いから。

 

となるとコンパクトにまとめられた俳句なら読みやすいし、分かりにくかったら飛ばせばいいんです。分かんないもんはしょうがないんですから。

『芸人と俳人』でも紹介されているのは「自由律俳句」の尾崎放哉です。

 

自由律俳句というのは575の字数にとらわれず読む俳句なんですね。

かといってリズム感はちゃんとあるんです。

 

私は初めの頃は

どこからどこまでが5で7なんだ?

とつまらない所で引っかかって挫折していました。

が、自由律というのはそういう制約が無いので読みやすいんですね。

まさに大喜利っぽいんです。

 

シュールなネタに似た感じです。

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音楽のと文学のリズム感は通じる(漱石は多分音楽が好き) 

 

純文学で感動するということはどういうことか 

自由律俳句の面白さ

以下は代表句です。

  • 咳をしても一人
  • 墓のうらに廻る
  • 足のうら洗えば白くなる
  • 肉がやせてくる太い骨である
  • いれものがない両手でうける
  • 考えごとをしている田螺が歩いている
  • こんなよい月を一人で見て寝る
  • 一人の道が暮れて来た
  • 春の山のうしろから烟が出だした(辞世)

これはウィキから取ったもので(辞世)というのは最後の句です。

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あはは、と笑えるものではないですけど、お笑いのシュールネタのように何か感じることのできるものじゃないでしょうか。

私は「墓のうらに廻る」というのは何ともいえない光景だと思ってお気に入りです。

 

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で日村さんが気づかず墓場の近くの部屋を借りてしまって、そのことを設楽さんに攻められるというものがあります。

 

そのことを日村さんが気にならないと誤魔化したら、設楽さんが窓をあけて

「触れるじゃん」

墓をぺたぺた触るシーンがあります。

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「墓のうらに廻る」というのはこれに似た「墓」にまつわる、非現実的でありながらありそうな、シュールな感じがする一句だと思ったんですね。

もっと読み方はあると思いますけど。

 

そういう笑えそうな、心を揺さぶられる要素があるのが文学の感じどころだと思うんです。

純文学を感じるにはそれなりの素養っていうものがあって、言葉に対するアンテナを鍛えないと

「こいつなにいってんの?」

っていう感じになるんです。

 

長々と読んだ果てに何が何だかわかってないまま終わってしまった。

時間返せや!とさえ思うわけですよ。

 

もう一つは、誰でも小さい頃は昔話を聴いているわけで、その経験で、あらゆる物語は「つたえたいこと」

があると思い込んでいる。

 

純文学にもそういうものがあるだろうと思って読むんだけど、なかなか見当たらないし、言葉も難しいし、結局何をどう読めばいいかわからないまま迷子になってしまう。

という風に「純文学」の読み方が誤解されていると思うんです。

 

読書のカッコよさについて

 

「昔話」っていうのは

「こういう風に生きなさいよ」

っていう規格や教育的な目的があって明確な

 

「伝えたいこと」

 

があるわけです。

 

それはとてもわかり易いんですね。

以前純文学は詩の延長だって話しましたけど、詩というのは心の赴くままになんとなく思ったことを書くというのがルーツです。

 

それを読者は読んで何を思うかというのは

「あーわかる」

って言う共感なんですね。

 

ですから純文学を読んだところで明確に得られるものがあるわけではありません

というよりも、

音楽を聴いて気持ちいいとか、そういうものにも近いです。

 

じゃあ、そんなの知ってても価値が無いかって言ったらそんなことはありません。

  • 楽しいことを知っている
  • 気持ちいいものを知っている

という事だけで、「その人」の魅力になるんです。

 

  • お金を持っている
  • パワーがある
  • 見た目がきれい・かっこいい

 

もいいですが、魅力ってそれだけじゃないですよね。

人としての深みは何だかわからない深みにこそあるんです。

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