読書はストレス発散
本を読むとストレスが下がることが分かっています。
日常はストレスにあふれているでしょう。
だから本を読んだほうが良いんです。
でも本を読むのってダルいじゃないですか。
何でかというと「慣れてないから」です。
仕事も同じで、慣れるまえは疲れちゃいます。
でも慣れてくると考えずに進めることが出来ますよね。
読書も同じで、慣れてくると知識・経験が増えますから、そういう所は考えずに読むことが出来ます。
考えずに読むという事は文脈を読むという事です。
慣れていない読書の場合は難しい漢字や単語が出て疲れちゃいますよね。
でもドンドン読んでくると、そういう所に躓かなくなります。
ですから疲れたら休んでいいですし、簡単な本に乗り換えていいんです。
読み始めた本自体が難しかったら無理に読むのではなくて、本棚にしまっていいんです。
読んでてつまらない、分からない本は読んでいても分かることはほとんどないので、別の本に移りましょう。
【ポイント】
- 読書は疲れて当たり前
- 疲れたら飛ばす
- 分からない本は投げる
これでいいんです。
仕事の後の読書
「就職した後も本を読んで勉強しよう」
っていいますけど、なかなか難しいじゃないですか。
そういう時は無理に読もうとしなくてもいいです。
それでもどうしても読みたいなら、kindleで読むのがおすすめです。
本を開いて読むと畏まっちゃうことがありますが、スマホで読む分には何だか気楽に読めたりします。
【詳しくはこちら】
バイトで日雇い労働とかよくしてたんですけど、体を使ってへとへとになると本なんか読みたくなくなるんですよ。
もうテレビとか動画とか、受動的な刺激だけで手いっぱいなんです。
そうなると当然文章なんかも書く気はしません。
読書時間の作り方(読書時間がない!) - ノーミソ刺激ノート
肉体労働の人が本を読まないのは当然だなって思ってたんですけど、西村賢太なんかは、その小説を読んでみると休憩時間に小説のコピーとかを読んでるんですよね。
マジかよって思いましたけど、もしかしたらそれって本来的な文学の在り方なのかもと思ったんです。
つまり、読書をすることで心を慰めていた、ストレス発散していたってこと。
「人生に、文学を」オープン講座 in 東京大学 本郷キャンパス 2016年11月6日(土) 第2講 西村賢太さん「“私”の小説の流れ」
彼は肉体労働(代表的なものは冷凍イカの塊をパレットに移す作業)で生計を経ててましたから、大変な労力だと思うんですけど、私はそんな仕事をした後や中盤に本を読む気はしませんでした。
でもそれって読書や仕事に慣れてなかったからですね。
あとは余計にストレスを抱えやすかったのかもしれません。
なんでかなって思ったんですけど、ただ単純にジムとかでへとへとの時に本を読めるかって言ったら読めるんです。
でも仕事となると読めない。
つまり「慣れ」の問題なので、両方に慣れるしかありません。
繰り返しますが、読書も慣れれば、ストレス発散になって気持ちよくなります。
読書に慣れなかったら「少しだけ読む」だけでもいいんです。
2~3行でも構いません。
これは大切な事なのでしつこく書きます。
もしかしてこれが文学的な営為なのかと思ったりします。
そもそも読書って何のためかって言ったらこころを揺するためですよね。
読書は「こころを揺する」作業
これは学校の国語科でも同じことで、国語のテストって結局何を聞かれてるかって言ったら
「今まで君はどれだけ心が揺れたか」
を問うものだと思うんです。
人間体を動かすことも重要ですけど心もまた動かなくては生きている意味がない。
むしろそれ自身が生きることじゃないでしょうか。
中国の昔の官僚登用試験で「科挙」ってありましたよね。
あれは四書五経っていう基本の本の丸暗記と、詩の創作があるんです。
なぜ丸暗記が必要かというと基本的に言葉を覚えるため。
そして詩作というのは運用です。
四書五経で丸暗記した言葉で持って自分独自のものを捜索するんです。
「詩」は英語で「ポエム」(poem)って言いますけど、もともとはギリシャ語の「ポイエーシス」からきています。意味は「創作」です。
ヨーロッパだとキリスト教と相まって「創作は神の専業」という感覚がありました。
詩作というのはとても高尚なことだったらしいんです。
ですから詩人は桂の冠を被る権利があって「桂冠詩人」といって詩の創作は特殊技能だったんです。
でも日本や中国は割と普通の人が詩を作っていたんです。『万葉集』然り『詩経』然り。
日中の民衆の詩というのは基本的に労働歌です。
昔は肉体労働ばかりでしたから、仕事をしながら歌を歌ってたんですね。
今もそういうところはありますが。
ヨイトマケなんかはそうですよね。
そういう心の揺れを集団で共有するために歌ができて、言葉が生まれたと言われています。
私が肉体労働をした後に文学を読む気がないのは結局どういうことなのかはわかりません。
が、体を動かすということと、言葉が出来上がるということはやっぱ何か関係があるんだろうと思います。
ということは、未来に水槽に脳だけが浮かんでいたり、コンピュータに個人データが入っているだけで肉体がない人間が生まれるという話がありますけど、それは肉体という受容体に変わるものをしっかりと用意できないと何か問題が起こると思うんですよね。
心・身体・世界―三つ撚りの綱/自然な実在論 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者: ヒラリーパトナム,Hilary Putnam,野本和幸,渡辺大地,岩沢宏和,関口浩喜,入江さつき
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- 発売日: 2005/10
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