言葉は他人のもの
語彙力が増えるということは、人の言葉を受け継ぐことなんですね。
ですから、語彙力が増えると人の言葉がつかえるようになり、人の気持ちが分かるようになります。
この「人の気持ちが分かるようになる」っていうのは結構クセ者な問題ですけど、それはまた別の機会に書きたいと思います。
例えば、仲のいい友達同士だったら話し言葉のパターンが似てきたりするじゃないですか。
言葉というのは自分で使った瞬間に自分の言葉になってしまいますがその言葉の大本は過去の人の言葉です。
話し言葉を使って自分の言葉にするよりも、たくさんの本を読んで言葉を覚えたほうが効率よく言葉が覚えられるので一般的に本を読んだほうがいいと言われるのです。
言葉を覚えると何でいいのかという事は簡単に言えば表現方法が増えるという事ですよね。
人に誤解を与えずに済みます。
ことばで「転ぶ」
例えば幼少のころはよく転ぶじゃないですか。転ぶ気もないのによく転ぶ。
あれは自分の身体の使い方が分かってないからですよね。
色々動いていくうちに体の駆動範囲もわかるし、動いていくうちに筋力も上がって範囲も大きくなったりします。
言葉も同じようにたくさん使っていくうちに言葉のパワーがどのように他人に影響を与えるのかということが分かるわけです。
だから言葉の使い方が分からない小中学生のことは特にいじめが激しくなるんです。
それは言葉の使い方がわかっていないんですね。
言葉は認識そのものという考え方
人の言葉を使うことによって人と認識を共有できるんですね。
身体に受けたいじめであってもそれは体だけの問題では済みませんよね。
物事の認識は言葉で得ている影響が大いにあるので、言葉を多く知っていると人にも気を遣うことができるようになるんです。
言葉によって実在を認識するっていう「唯名論」(ノミナリズム)の考え方ですけど。
もちろん人間同士のやり取りですから色んな原因があって、解決の仕方となると別の方法をとるしかないです。
けど、そもそもの原因は認識の差異でしょう。
いじめの原因はそういう言葉の量によりますけど子供は言葉の量が少なくて当然ですよね。
言葉の量は認識の量です。
でも仲のいい子同士ではうまくいったりします。
それって人数が多いからだと思うんですよね。
ここまで行くと教育と政治の話になってちょっと文字数が多くなるので止めておきます。
言葉が原因のいじめのパターンは色々ありますけど大きく分けて二つあると思います。
- 自分がそういうつもりじゃないのにいじめになってしまったパターン
- 自分を制する言葉を知らないからいじめてしまうパターン
「いじめる側もいじめられる側も原因がある」
という話になるのは、両者ともに言葉(認識)の範囲が狭いから衝突としてのいじめが発生するんですね。
言葉だけの見地であったらこうなります。
が、よく言われる家庭の状況が原因でいじめることもが発生するというのも子供自身の主な認識の源泉が家庭で生まれるので大きく言えば言葉(認識)によるものです。
人に悪意をもっていじめをするのもいじめの対象に対する認識が薄いからです。
何も言葉になっているものがすべて認識とまでは言いません。
本を読まなくても経験を重ねた大人ならコミュニケーションがうまくいくこともありますよね。
が、子供は経験が時間的に得られないので言葉を以てどうにかすることができます。
これは当然大人も同じ事です。
大人になって転んだら大けがする可能性も
大人になっても会社内で喧嘩したり一方的に怒鳴り散らす人がいまだにいますけどそれも要するに「言葉足らず」というだけの話です。
物事に対して疑問や批判を全く持てないのも問題じゃないですか。
それも子供と同じように受けた情報をそのまま受け入れるしかない子供のままな状態だからだと思います。
これは子供の間だけの話じゃなくて国際関係だってそうじゃないですか。
これが国際外交関係になるとまた難しい問題が絡んでくるので「言葉でどうにか」というわけにもいかないときもあるんですね。
これは外国語とは何かという話になってきますから複雑な問題になります。
人間の認識によって簡単に正義と悪が作られてしまうので言葉というものは恐ろしいものです。
だからこそたくさんのパターンを身に着けるためにも本を読んだほうがいいんですね。
そして仲のいいもの同士でどんどん話をして、転びまくりましょう。
気の合わない人と話すから転んで大けがになりえますけど、仲のいいもの同士の衝突だったらある程度大丈夫ですよね。
練習試合みたいなものです。
スポーツも初めは転んだり投げられたりしたときの受け身の練習から始めるように「痛さ」を知らなければ言葉も上手く使えなかったりします。