「教訓」なんかない
学校の授業で小説を薦められると、なんだかそこに読むべき教訓があると思いがちじゃないですか。
でもそんなことはありません。
学校の授業では問題作成のために取り敢えずの答えが用意されていますから、世の中には「答え」が存在しているかのような幻想を持ってしまいます。
しかし、小説の中には必ずしも教訓があるわけではありません。
「教訓」っていうのは人から教わるもの「こうだ」と言われて、言われた方は納得するっていう、ただの「答え」という施しを受けるだけのことですよね。
小説を読むのって「施し」を受けるためのものでしょうか。
お金を出して買ってるんだからそれを受けるのは当然だというメンタリティなら読む必要は無いです。
そうじゃない、別のものじゃないでしょうか。
自分が読んだ後と読む前で「変化」を感じる、別物になる感覚がありますよね。
それって、施しのような受動的、受け身のようであり、能動的、自分から攻めていくような、両義的なものでしょう。
そういう経験は、「読書」しないと感じられないんですよね。
だからそれをやってる人とやってない人とでは差が出てくる。
「人」はみんな一緒のようだけど、「差」っていうのがあるじゃないですか。
それって「個性」だとおもうんです。
小説を読んだ後の「個性」
結局は「娯楽なので読まなくてもいい」というのが私の答えではあるんです。
が、じゃあ読んでない人に魅力を感じるかって言ったら、「感じない」ですよ。
何でかと言ったら「人間としての深み」を感じないからです。
人間の魅力は「個性」って言いますけど、個性って、
- 見た目
- 中身
この2つに分けられますよね。
で、「中身」って何だって言ったら、「言葉」しかありえないんですよね。
話さないっていう選択肢もありますけど。それは他者が想像することであって、それではその人の「中身」かって言ったら少しボヤけますよね。
「言葉」がそのまま「個性」に繋がるとしたら、その言葉はどこから持ってきているのかといえば「読書」でしょう。
言葉は過去のものです。
その過去のものはどこにあるかといえば、今はあらゆる物がありますが、情報量で言えば本がベストでしょう。
「言葉」は他人にも使うことが出来ますが、自分にも使うことが出来ます。
使ってどんな作用があるかといえば「心の揺れ」ですよ。
その心の揺れは、一度揺れるとずっと続いてるものだと思うんです。
その、物質的でない、作用(動き)が、人としての中身の正体だと思います。
あるかどうかわからない「心」が「揺れる」感覚があるじゃないですか。
自分にしか分からないような、「あ、これって…」っていう感覚、別の何かに飛んでいくような感覚を、私は「心の揺れ」と言っています。
小説を読むと、特別な教訓は感じなくてもいいですけど、何かしらの心の揺れ、感動があるはずです。それは心の経験であり、日常では得られないようなものです。
そういうものが「個性」として蓄積されていきます。
だから小説を読んでいる人が読まない人よりも、なんだか含蓄があるように思えるのは、そこだとおもうんです。
だからといって小説を読んでいる人が偉いわけでもありません。
読んでない人は「バカ」か
小説を読んでいない人が馬鹿にされる傾向がありますが、読まない人は読まないんです。
お酒を一生飲まない人がいるのと同じで、小説も読まない人がいるのは当然のことです。読まない人に価値がないかと言ったらそんなことはありませんよね。
しかし小説を読むと深みが得られるかと言ったら得られると思います。
が、それは何で得られるかと言ったら「教訓を得た」からじゃないです。
何でか知らないけど「深み」「個性」が出るんです。
あえてそれを言うんなら、例えば中学生に答えを求められたら、
「自分の人生の中で得られないような経験を追体験できるから」
という「教科書的な答え」があります。
一応納得できる、答えになっていそうな言葉だから、ガキに教えてと求められたらこれを使えばいいでしょう。
けどハッキリいってそんな一言で言えることではありません。
現実は割り切れないことがたくさんあるじゃないですか。そういうもんです。
「頭がいいだけのやつ」がつまらない理由 - ノーミソ刺激ノート
小説に答えを求めるのは「おこちゃま」
小説を読んでいて、「結局何が言いたいの?」というひとがいます。
しかし物語というのは作者が伝えたいことが読者にちゃんと伝わるものがいいものとは言えないんです。
子供のころの所謂「おはなし」は、
「こうしなきゃいけませんよ」
という教訓がありました。
それは何もわからない子供のためにわかりやすいものをまず形として与えるわけです。
しかし大人向けの、本当の物語というのは、読者自身が解釈できる解釈の可能性があるんです。
東洋的な思想、美術では空白を好みます。
それは空白の中に想像が膨らむものです。
水墨画、山水画をどのように見るかといえば、最低限の墨の中の白い空白に想像力を働かせることです。
これは東京美術学校(東京芸大)創始者の岡倉天心も言ってることですね。
『茶の本』はお茶の飲み方を言っているのではなくて日本古来の美意識が日常の「お茶でも飲む」という普通の動作に集約されているという美学の本です。
子供のころにしか本を読んだことのない人は
「結局何が言いたいの?」
と用意された答えがなければ物語ではないと思いがちです。
しかし本当の物語というのは自分自身が解釈するもの。
子供のころは解釈するもなにも実践経験がないので解釈ができないのが当たり前です。けど大人ならできるでしょう。
しかし大衆はできないんですね。人から言われたことに従うことが楽ですから。
大人は答えられないとまずい
逆に人から言われたことに従いたくないのであれば、たくさん本を読まないとまずいと思います。
大人だったら「結局何が言いたいの?」と人に訊いているのではなく、
「結局何が言いたいの?」
と、人から訊かれて答えられなければいけません。
一冊二冊しか読んでいなければその少ない本に従う事しかできません。
が、100冊1000冊も読むとほとんどの本のことを忘れているからこそ、その本に従わずに全部が混ざった解釈ができるようになるんです。
逆説的ですけどね。
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1000冊くらい読むと「忘れてる」と書きましたが、正確には全部何もなくなっているわけではないんです。
どこに何が書いていたかは忘れてるけど、心に残ったものが混沌として残っているような状態です。
ですからそのグチャっとしたものの中にコロコロとした塊ができます。
「こころ」の語源は「凝る」からきていると言われています。
子供ならいいですけど大人になって人に言われたことしかできないってかっこ悪いですよね。
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人生の解釈を行うには意味のない空白に自分の解釈(色)を加えることです。
仏教では世の中は空(くう)だと言いましたが、それを思い出しました。
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