日本人には経典がない
日本人に引用すべき古典的教養書がないという話が有りますよね。
個々人で引用は自由ですけど、みんなが絶対知ってるものというものはありませんよね。
そんなはずはないという人もいるでしょうけど、外国に比べたら毎回引用される「経典」のようなものは実はないんですね。
日本人を馬鹿にしてるんじゃないですよ。
というのも日本人は他の外国諸国と比べて何か一つを徹底的に崇めるってことがなくて、どれも割と平等に見るんですね。
例えばヨーロッパ圏では文学、科学と問わず聖書が毎回のように引用されるし、引用されなければ深みのあるものともされません。
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何故なら学問の基本はキリスト教神学から発しているからですね。それは科学と言え例外ではありません。西洋学問の流れは、
神学→哲学→科学
という順序です。ですから科学を論ずるときでも、わざと神学、宗教学を嫌っていない限りその流れを無視することはできません。が、じつは学問そのものの歴史なのでその学問に従事するなら無視してもついて回るものです。
日本には『古事記』があるだろうという人もいるかもしれませんけど、古事記ができたのは712年で、まともに一般人が読むようになったのは本居宣長が研究し始めた1750年くらいです。
他にも和歌集などの詩集がありますけど教養人でも読んでない人が多数派ですよね。ヨーロッパ人は教養のある人なら絶対、聖書読んでますよ。
本居宣長の国学はそれも漢学、蘭学と海外の学問ばかりになってしまった反発として反抗期の子供のように勃発したものです。自我の目覚めのようなものです。
ですから日本人は古事記を読むべきだとは思いますけど、聖書や仏典のように崇め奉ることはしないでしょう。日本人のメンタリティがそうしないでしょうし。
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天皇陛下に対したってそうじゃないですか。一部崇め奉っている人たちはいますけど、本来はそういうものではなくて天皇というのは上にいるものではなく中心に存するものだと思います。
元号の出典引用について
元号に対してももうすぐ元号が変わるのは何かワクワクしますけど、毎回中国古典が出典だから今度は日本のものから引用してっていう話が有りますよね。
でもそれって昭和の時からも言われていたことで多分もっと昔から言われてると思います。結局「平成」も中国の古典からとりました。
今回は日本の古典から出るかもしれませんけど、出典って日本人的な考えでは身内からとるよりもなんだかわからない外国からとる方がちょうどいいと思うんですよね。
中国がすごいとか尊敬すべきとかじゃなくて、当人同士の言葉じゃないから説得力があるってことあるじゃないですか。同じこと言ってても身内だったら腹が立つみたいな。
こういう神経って日本的だと思うんですよ。身内をアゲるっていうのは外国だと当たり前にあることで、何ら不思議ではないですけど、日本人的感覚だとダサくないですか。
身内をアゲるのを嫌う日本人的性質
逆に言えば昔から外国書籍からとってたっていうのは、昔から変わらない国家があるからその通りそのまま続けられるってことじゃないですか。
国家っていうのは続けることが一番難しいんですから、やり方を変えるっていうのは何かしら理由があるわけですよ。中国が元号を取るのをやめたのは清が滅亡したからですよ。
中華民国(台湾)は中華民国成立からの「民国107年」。北朝鮮はイルソンが生まれてからの「主体107年」で、古典からとっていません。
元号の方式を変えるっていうのはそれくらいのデカい理由があるからです。だから相変わらず中国からでいいと思うんですけどね。だって今の中国とは別の国ですよ。中国古典の世界っていうのは。
日本古典からとれないのが悪いみたいな感じに思えるのもわかりますけど、やり方を変えずに外国古典からとり続けるっていうのは、かなり高等なことだと思います。
だって外国から取っても国内の形は変わらないってことじゃないですか。
元号を変えるのにも理由があるんだから出典の取り方を変えるにも理由がないと変ですよね。
本当に出典のありかを日本古典からっていうなら日本が今の形態から崩れた時なら正当な変え方だと思うくらいです。
それを「日本もいい古典があるからそこから取ろうよ」っていうのは安易だし、稚拙だし理由としては浅薄ですよ。
例えばヨーロッパに西暦以外の元号があったら絶対に聖書からとるはずなんですよ。なんせヨーロッパの歴史そのものですし、それ以外考えられない。イギリスは国王即位の年が書かれていることがあるらしいですけど、全然一般的じゃないです。
中国だって元号が復活したら中国古典以外からとることは無いでしょう。
それって国がめちゃくちゃになった経験がしょっちゅうあるから国家に対する哲学があるんですよ。
結婚哲学を語るのは離婚経験者じゃないですか。一回結婚しただけで終わった人で結婚哲学を語る人ってほとんどいないと思いますよ。だって語る必要がないんですもん。
日本はそういう事なんですよ。国家的危機があったことはありましたけど、実際無くなったことがない。
だからこそ古典が尊ばれないっていうのもあると思うんですけどね。ははは。