はじめに
読書が難しくなる理由として挫折するという事がありますね。多少わからないことがあっても少しは我慢できても、それが長く続くときついじゃないですか。
それは誰でも起こることなんですね。
読書の力って案外「しつこさ」だったりする。読書を長続きさせるには。 - ノーミソ刺激ノート
挫折が一回で済めばいいですけど世の中に本は沢山ありますから読書をしている限り挫折は続きます。逆説的ですが読書に挫折はつきものです。しかし何度も挫折してるとそれに慣れて気にしなくなります。ですから気にしなくていいんです。
それでも読みたいという場合はそれに関する入門書から読み始めればいいんです。最近は漫画版や図解ものがあるので
「あーこれはだめだ」って思ったらさっさと読むのをやめればいいんです。本は沢山あるんですからドンドン読みまくるべきです。
今回は私が思う挫折するパターンをまとめてみました。
自分に難しすぎる場合
読書経験があまりないのに古典的名作を読み始めてしまうと、その読み方が分からなくて挫折するパターンがありますね。
哲学書の読み方の訓練をせずに読んでしまって「哲学はくだらない」と言っている人がいますが大体そのパターンだと思います。
哲学書1000冊読んだらどうなるか。 - ノーミソ刺激ノート
人それぞれ価値観は勝手ですけど読書と言っても技術が伴う場合があるので何でも読める、わかると思って読み始めないほうがいいと思います。
何でもそうですがある程度経験を積むと、勘所を掴めるようになりますから、それまでは謙虚に入門書を読むしかないと思います。大抵は入門書5~10冊読めばその分野の大よそのことはわかるようになるはずです。
小説の場合も名作を読んでから「結局何が言いたいのかわからない」という人がいます。小説を子供が読むような「むかしばなし」のようなものと勘違いして教訓が得られるもの、何を得たのかはっきりわかるものでないと意味を感じられない人の場合ですね。
上級者向けになると、小説というのは自分でどう解釈するかという話なので、人から与えられた解釈だけでは納得できないところが出てくるようになります。
そういう風に色んな読み方ができるものが純文学と呼ばれるもので、わかりやすいものは大衆文学と呼ばれやすいです。
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純文学で感動するということはどういうことか - ノーミソ刺激ノート
齋藤孝は読書力がつくのは小説100冊、新書50冊という事を言ってましたけど、確かにそれくらい読めれば普通の純文学であれば読めるようになると思います。
ですから立ち読みをしまくって自分にピンとくるものを読みまくりましょう。
そもそも読む場所ではない場合
どういうことかというと、料理でも食べられる場所と飾りの葉っぱや骨のように食べられない場所があるように本の中でも簡単に読めるところと、眺めるだけでよくてちゃんと読まなくていい場所があるんです。
じゃあそんなところ初めからないほうがいいじゃないかと思いますよね。
そういう人のために絵本や漫画があるんです。そういうものは重要なところだけ書かれていて難しい所、形式的なところは排除されています。
読み慣れていない人は赤ちゃん用の離乳食を食べるように余計なものを排除した簡単な本を読むほうがいいんです。
でもいつまでも離乳食じゃ味気ないじゃないですか。そういう人は苦みが混ざった複雑な味や、味だけではない世界観を表すために飾りがついたものを食べるようになりますよね。
そういうちゃんとした料理を食べたいと思うよう一般的な教養書を読めばいいんです。
例えば古事記の場合、神様の名前がたくさん出てきますが、それを普通の小説のように一々覚えていたらキリがありません。
しかも重要な神様は一部しかいなくて、名前が一回しか出ないだけで今後の展開に触れない神様もたくさん出てきます。
太陽の神様の「天照大御神」(アマテラスオオミカミ)は重要ですけど、割と有名な月の神様「月読」(ツクヨミ)は初期の一回しか出てきません。
一番初めに出てくる天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)も一回しか出てきません。ですから忘れていいと入門書にも書いてあります。
だから重要な神様の場合は何度も名前が出てきますからその時その時で覚えなくてよくて、流し読みでいいんです。
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