感動した本を説明しよう
伝えるべき本は「面白かった」というものじゃないとマズいです。
読書感想文のように自分の言葉で書く場合は、課題図書をあたかも感動したように書くことが多いですけど、そんなことよりも「感動した」という熱意が無いと伝わりません。
逆に文章がある程度下手であっても「熱意」があれば何度なくは伝わるもの。
それが言葉というものです。
ですから説明する本かはならず何かしら心を動かされたものにしましょう。
その為には書かれた本は、血の通った人だという事をしっかり認識しましょう。
つまりただの情報ではなく、意図があって書かれたものだという事。
書いた本人は自分よりも優位な存在でも何でもなく、同等の存在だという事。
高校生くらいでは難しいかもしれませんが、少しそういう風に考えてみるだけで読み方が変わっていきます。
読書をしていると、詩や純文学の場合だと「何が言いたいのか分からない」という場合があるでしょう。
それは機械的に正解があると思っている「奴隷」的な考え方です。
本来的な読み方は「自分で解釈」すること。
例えば人生における選択肢で
- 「A大学に行くべきか」
- 「B大学に行くべきか」
というものがあったとしましょう。
そしてその後Aに進んで、一流企業に就職できたとなると、一定数の人は「A大学に行ってよかったね」という解釈をします。
実際はそんなことは無くて、Bに行っても就職できたかもしれないし、大学院に行ったかもしれないし、A大学で変な友達の勧誘に引っかかって犯罪に手を染めてしまった可能性だってあります。
つまり選択したこと自体があたかも正解かとおもっているんです。
実際はそうじゃなくて、人生はその場その場の判断、生き方で人生は変わるのであって、どちらの大きな存在に乗っかったから、行ったから正解だったということは無いんです。
「Aが正解だった」とざっくり判断してしまう人は「A大学」「一流企業」という大きなものに乗っかることが最適だと思ってしまう「奴隷」的な思考です。
同じように読書も、正解があるのではなくて自分の感動したところを説明すれば、自然と人は感動します。
読書は人とつながること
せっかく本を読んだんならその読書を生活の中で生かしたいじゃないですか。
それは本来的な読書じゃないと思うかもしれません。
読書の楽しみの一つは孤独を楽しむことでもあると思います。
が、一方で、読書とは別人とつながること。
読書の本質は「対話」です。
それは著者と自分が読書によって対話することでもあります。
人は誰でも先入観がありますが、他者の先入観を受け入れることによって、自分の「地平」を拡大することも一つの醍醐味じゃないでしょうか。
人にはどんな人でも偏見・先入観があります。
他者との対話で、他者の先入観を受け入れることをガダマーは「地平融合」と言いました。
他者との対話で「地平融合」が起きるように、自分が実際に人に説明をするときも、自分の中にあるものをアウトプットすることによって、新たな自分が発見されることってあるじゃないですか。
一人での習慣である読書が人に話すことによって、より読書の理解を深めることができるんです。
人に説明できるということは自分自身にも読んだ本の内容を説明するという事になります。
人に説明することに必要性を感じていない人もいるでしょう。
読書は一人で楽しむものでもあります。
しかし、たまに説明するという事を意識することによって自分自身の精神をさらに深めることができるんですね。
何度も読もう
名作は漫画版であろうと何度も読まないと忘れてしまいます。
読んだ本の内容は9割忘れます。
でもある時ふっと、
「そういえば、どっかで読んだな…」
って感じで思い出すんです。
だから「覚えよう!」としなくてもいいんです。
受験勉強の場合は、時間を空けて何度も読むのみですが。
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名作を読んでいるときに
「結局どんな話だったっけ?」
と思うことありませんか。
確かに複雑な話だったけど、「どんな話だったか」と説明しようとしてもできない。
これじゃあ自分一人で楽しむ分にはいいかもしれませんが人に説明しづらいですよね。
せっかく苦労して読んだのに制つめいの仕方が曖昧だったら格好がつきません。
そんなときのために漫画版をたくさん読みましょう。
ドストエフスキーとか、ニーチェとか、外国の小説や哲学書って、入門書や漫画版を読んでようやっと「おお、そういう話だったのか」と何となく納得するものです。
けど、人に説明はまずできないと思います。
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そもそも1回読んだだけでは漫画版とはいえ理解ができない可能性もあります。
外国の場合、そもそも文化が違いますから日本人の感覚ではよくわからない習慣や常識が混じっています。
だから1回じゃ理解できないのは当たり前。
しかも100年以上前の話ですから時間的にも距離があります。
私の感覚で行くと、漫画版でも最低4回は読みたいです。
四回読めばやっと話の筋が見えてきます。
そんなに複数回読むのは多いと思うかもしれません。
が、音楽にしてもカラオケでちゃんと歌えるようになるくらいに聴く回数って、大体100回くらいじゃないですか。
読書も同じ事で、物を覚えるのに繰り返す回数って大体同じなんですね。
ただ一回読んでしまえば回数を重ねるごとに楽になります。
さらに詳細に覚えることができます。
そうなるとドンドン楽しくなってきます。
せっかく読んだんだから、説明できるくらいにならないと、と私は思います。
人と話すときに本当に読んだのかと疑われます。
実際私は疑いますし。
でもあんまり理解していないけど説明したいとなったら、小説の場合ストーリーを説明するのは実際難しいです。
小説は短篇でも長いですから。
何故ならどんなに短篇でも一言二言で説明できるものではないからですね。
かといって「簡単に説明できない」では説得力がない。
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あらすじ説明から回避せよ
じゃあどうすればいいかというと、なんで説明しづらいかを関連知識を混ぜながら説明すればいいんです。
例えばドストエフスキー『悪霊』の場合、簡単に言えば「悪霊というのは思想のこと」なんですけど、これじゃあんまりわからない。
じゃあ作者がどうしてこういう思想を持ったのかというとという具合に関連の知識を持てばいいんです。
当時のロシアの思想を知るにはなんていってもキリスト教の知識と共産主義の知識です。
共産主義を知るなら反対の資本主義はどんなものかを知っていれば尚いいですね。
でもこういう知識って世間的にもメジャーな知識なので漫画版があるので本当に便利です。
こういうことを知っているとストーリのあらすじだけでなく周辺知識を加味して説明ができるようになるので何とかごまかせます。
それどころか知識があることをアピールできていいかもしれません。
そもそも小説のストーリーを説明できるわけがないんです。
本当にしたいんなら専門家になるしかありません。
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