「人格」の定義ももよりますが、読書によって人格が変わると言ってもいいでしょう。
人格とは
「人格」というと、「個人」という言葉で置き換えられることがほとんどでしょう。
個人はどういう理由で特定されるかというと、記憶、記録です。
読書をすると記憶が増えたりしますから、人格が変わると言ってもいいですよね。
記憶が増えると考えることも増えます。
だから考え方が変わって「人格」が変わっているように見えます。
場合によっては全く違う考え方に変わることだってあります。
そうなると、「人格」とは何だという話になります。
それくらい曖昧なものではあるんですね。
そう考えてしまうと怖いと思う人も多いでしょう。
それも当たり前です。
人は「この人はこういう人」と定義をして、固めておきたいんです。
逆に言えば、
- 「変な人は変であってほしい」
- 「殺人者は最低な人であってほしい」
と思うんです。
なぜなら、そうでないと「分からない」からです。
「分からない」ことは恐怖です。
そして、イチイチ考えなくてはいけません。
考えることは面倒だから、人は習慣化するようにできてるんです。
でもそれは仕方のないことなので、諦めてください。
繋がりが人格
その繋がり、一貫性があるから、
「この人はこうだ」
という定義が出来るわけです。
逆に、記憶のつながりが無ければ、人格もつながりが無くなります。
「多重人格」とは、個人の中にたくさんの魂があるように思えますが、そういうスピリチュアルなことではなくて、記憶のつながりが無いから別人格に思えてしまう事なんです。
昔の日本というのは個人主義というものが無くて、それが分かったのは明治以降に漱石がイギリスへ留学した時です。
過去における「個人」に関しては↓の記事をどうぞ
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つまり「人格」は過去と未来のつながり。
過去の自分と未来の自分が全く同じような考え方ではマズいでしょう。
それって成長してないってことですからね。
では「成長」って何かというと、行動が変わることでしょう。
それは過去に関する個人ですけど、今後の個人となれば「行動」ということになります。
行動の原理が変わってしまえば別人と言ってもいいのではないでしょうか。
本を読むことで行動原理が変わるという事はよくあることです。
「影響される」ってやつですね。
本の中で書かれていた一言を読んだだけで、その後の人生の行動ががらりと変わってしまうという事は実はよくあることです。
そうなると、無意識に行動が変わりますから、人格が変わっている感覚になるのは当然でしょう。

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「行動」が変わるのは読書
ですから「自分のことを変えたい」現状を打破したいと思うのであれば読書をした方がいいでしょう。ただし、いつまで経っても自分のことを馬鹿だと思ったら本は読めません。
なぜなら無意識に自分のイメージを決めつけてしまうから。
- 「勉強ができない」
- 「運動ができない」
- 「いつもミスばかり」
というように、今までの経験の積み重ねで、ついつい自分はこういう人間だ、できない自分が自分らしいと思い込んでしまうことによって現状を維持するんです。
生物の身体には、今の状態を維持しようとする機能である、恒常性機能(ホメオスタシス)があります。
ケガをしても本来の正常な自分に戻そうとそれが働くんです。だから自己治癒ができるんです。
身体にあるんだったら精神にもあるわけです。
すでに書いたように無意識上の自己イメージが今後の自分の行動まで決めてしまうんですね。
「行動」が変わると「収入」が変わる
例えば年収300万の人が3億円の宝くじに当たってしまったらどうなるとおもいますか。
どうなるかは、その人の無意識次第なんです。
でも、300万しか稼いでない人が、いきなり生涯収入を超えるものが入ってしまった場合よく聞くのが
「すぐに使い果たしてしまった」
ということ。
「どうなるとおもいますか」
と訊かれて
「人生がおかしくなる」
と思ってしまった人は、年収300万の人が3億円を使い果たせない「小物」だと思い込んでしまっている可能性があります。
よく聞くそうやって自分の許容範囲以上の幸福が来た場合は
「良いことがあったから必ず後は不幸になる」
とつまらない信仰を思ってしまったりするんです。
大体そういうヤバイ考えを持つ人は以下の三つのタイプに分かれるんじゃないでしょうか。
- いいことが起こったから悪いことが起こると謎の信仰心を持つ。
- こういうことは人生で二度と起きないからパーッと使う。
- はじめの内は計画的に過ごすも全然お金が減らないから寧ろ不安になる。
こんなパターンじゃないでしょうか。
でもいつも通りの収入を得ているだけで世界の人と比べて日本人は割と幸せなのになんで不幸にならないんでしょうか。
それって自分を枠にハメてるだけですよね。
「自分」という枠(わく)
そういう時にだけ妙な「人生は禍福(悪いことと良い事)の波にある」と信仰を持つのは馬鹿げてます。
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いずれのパターンも「自分はこれくらいのスケールだ」と自分はこういうものだという確固たる自信があるんですね。
でもはっきり言って人間なんて誰でも大したことないんですよ。
自分の魂がたった一つの尊いものだと思ってるんでしょうか。
ちょっと使い方は違いますが人の命に関して司馬遷は『史記』でこのように書いています。
「死は或いは泰山より重く、或いは鴻毛より軽し」
(人の死は中国一の泰山よりも重いときもあれば鳥の羽のように軽いものだ)

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つまりですね、一概に「命は大切だ」と無思考で言ってる奴は馬鹿だということ。
もう一つ「本当か?」と考えるべきだと思いませんか。
司馬遷は中国の歴史を一通り見たうえで厳しい時代を生きながらもいろんな人々が色んな意味、思いをもって死んでいったことを記録し続けました。
そこで書いた言葉ですからこのような例は厳密に言えば少し違いますけど、要するに命の価値観はその時々で変わるもんだ、絶対的なものはないんだということを大きく捉えて私は事あるごとに感じています。
読書をするとですね、人格が変わるんですよ。
それまでの自分と変わります。
それでも自分は自分だと思っている人は
- 自分とは何か
- 継続的に自分だと思えるのはなぜか
という事を考えたり、何かで読んだりしたことはあるんでしょうか。
そういう「過去の自分」と「未来の自分」を通して、「統一的な自己」だと思う事を「自己同一性」(アイデンティティ)といいます。
それは「記憶」によって成り立っているんですね。
記憶というのは覚えてる覚えてないに関わりありません。
小さい頃の写真を見てもその時の記憶はないという事があるでしょう。
でも両親から「小さいころからこの癖は変わっていない」というようなことがあるでしょう。
つまり無意識の中の記憶だったり、言い方を変えれば頭で覚えていないつもりでも体が覚えているという事もあるんじゃないでしょうか。
そういう事をひっくるめた「記憶」でしかないんです。
自分の身体なんて3か月もすれば細胞全部変わっているっていう話ですから、物理的にも別人のはずなんです。
本を読むと意識が変わるじゃないですか。
その小さな変化をしている時点で別人なんです。
ですから過去にどんな失敗したかなんて関係ないんです。
現在の自分が未来にどんな記憶を投げられるかという事だけ考えましょう。
ですから過去の失敗や、不幸や逆に言えば幸福なんてそんな小さいスケールで考える必要もありません。
ブログにしても毎日投稿なんて無理だ、毎日1000文字以上打つなんて俺にはできないと思っていたらできないんです。なんでかというとできない理由を必死に探すからですね。
よく頭のいい殺人犯や詐欺師のことを
「そんなことで頭使うならいいことに使え」
という人がいますが、それは的外れなんです。
殺人犯や詐欺師は「社会のために働く、頭を使う自分」というのがイメージできないんです。
なので、普通に働いて社会貢献することが気持ちよくないんです。
それはそいつが特別馬鹿なんじゃなくて、誰でも自己イメージを勝手に作ってしまっているんですね。
じゃあどうすればいいかって言ったら意識的に
「自分は本当は3億円以上、いや、300億円くらい稼げる人間なんだ」
というような「自分がなりたいイメージ」を時々強く思う事です。そうすると無意識の中にそういう自己イメージが形成されていきます。
そういう人がいきなり宝くじ3億くらい貰っても、取り乱さずにそのお金で贅沢するのではなく、
「どこに投資をしようか」
ということを熱くならずに考えることができると思いませんか。
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