はじめに
純文学は音楽鑑賞のように読むといいです。
何か情報を受け取ろうとするのではなく、ストーリーを読むのではなく、言葉の感覚をそのまま受ける感じです。
例えるなら、お湯につかる感じ。
- わー面白い
- 感動する
- 涙が出てくる
というようなことではありません。
大人になってから温泉の良さとかブラックコーヒーの美味しさに気づくのと同じ感じですね。
簡単に分からない、でもだんだん、じわじわ効いてくる。
そんな感じです。
純文学って一般的には人気がないんですよね。
私も中学生のころまではよくわかりませんでした。
一般的には文学が本当に好きな人が読むもので、大衆文学は初心者が読むものだと聞いたことがあります。
でも私自身はどうしても純文学の面白さが知りたかったんです。
一般人が面白いっていうものってなんだか機械的に面白い感じがするんです。
感動するツボを押されている感じですごく機能的です。
一方、純文学のような芸術に感じる面白さというのは自分で感動する、能動的な活動なんです。
ですから創造されたものに自分が積極的に参加して感動を得ている感じです。
そもそも普通の人が読むものを当たり前に面白いと思ったって面白くないと思いませんか。
なんせ純文学は本物の面白さって感じがするじゃないですか。
今は純文学を読み始めて十年以上たってますけど、そこで私が思える純文学の面白さをまとめました。
ストーリーにない面白さ
小説の面白さっていうのは言葉の使い方やストーリーにあると思いがちですが、たとえ文章が下手でも面白い小説だといわれるものがあります。
それが田中英光。
田中英光傑作選 オリンポスの果実/さようなら 他 (角川文庫)
- 作者: 田中英光,西村賢太
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何が文学の面白さを決定するかって「関係性」だと言われます。
「だと言われます」っていうのは結局「これ」ってものは断定的に言えないってこと。
幾ら巧みな文章でも評価の中で「人間が描けていない」という理由で弾かれる作品がたくさんあります。
要するに自分勝手な論理、文章でそのヒトリゴトを書きつづるばかりの小説は評価されない傾向にあるってことです。
でもこれって難しい所なんですよね。
ヒトリゴトを書きつづったことで結局、読ませる作品であればOKってことも十分ありうるからです。ですからあくまで目安ではあるんですけどね。
ヒトリゴトっぽい文章でいえば田中英光から影響を受けたっていう西村賢太。
『苦役列車』で芥川賞を取ってしばらくメディアに出ていたので小説を読まない人でも知ってる人はいるでしょう。
ここに出てくる主人公「北町貫太」(西村賢太のもじり)は本当に最低な野郎です。
だから倫理観を重要視する人は嫌いだと思います。
でも純文学系にはそういう主人公なんてたくさんいるんですよ。
太宰治の全般の主人公もそうだし、『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)のリュウもそうだし、『太陽の季節』(石原慎太郎)の津川竜哉もそう。
海外文学ではドストエフスキーの小説です。
ですから認めてもらえることもありますが、どうしても批判もされます。
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純文学の「傾向」
「傾向がある」ってことは傾向を知るためにある程度その世界に慣れなければダメだってことです。
大衆文学はそんなに慣れていなくても読める作品が多いですけど、純文学は素人受けしないというのはそういうところにあるんです。
多くの人に受け入れられないといけない問う考え方もありますけど、それは商売上の話であって、実際は商売の外の価値観もあるんですね。それが芸術の価値観です。
芸術の価値観は経済世界の外にあります。
ですから大衆受けを狙わなくてもいいんです。殆どの人にはわからないけど本物の価値観だと思います。小説は所詮ニセモノですけど。
西村賢太に関しては度々このブログでも取り扱ってますけど、これは西村氏の師匠の一人です。
師匠といっても面と向かった師匠じゃなくて、要するにめちゃくちゃ読みまくった作品ということです。有名なのは藤澤清造ですけど、藤澤を読む以前は英光を毎日読んでいたと言っています。
西村氏は最近はテレビに出ないですね。
テレビ出演に関してあんまりいい発言をしていなかったので本来は出演は好きじゃないんでしょう。
「あくまでアルバイト」感覚だというような発言を随筆でも見た気がします。
小説も面白いですけど随筆も面白いですよ。
好き嫌い分かれると思いますけど。どちらかというと勧善懲悪のスカッとするものじゃなくて、非倫理的なので批判も多い作品です。
純文学ではよくあることです。
倫理無視の文学もある
非倫理的な小説で代表的なのは石原慎太郎ですね。
題名がめちゃくちゃカッコいいのがこの筋の人たちの特徴ですけど、内容はめちゃくちゃです。
これで芥川賞を取りましたけど、評価が二分した作品です。何でかといえば倫理的ではないからですね。その関係でいえば村上龍のデビュー作もそうです。
これは『火花』以前までの芥川賞最大のベストセラーでした。
これも芥川賞選評で酷評されたものですけど完成度が高いので結局受賞しました。
ドラッグとセックスの話が大盛りなので、間違えて中学の時に読んだ時は気持ち悪くて数ページしか読めませんでした。
そもそも1ページ目の「絨毯」(じゅうたん)が読めなくて苦戦しました。
そんなに読めないものが一々話題に上がるのは何ででしょうか。
一つは何よりメディアで取り上げるというのが一番デカいですけど、次に誰もが思う「読書」に対する憧れ、尊敬というのがあると思うんですよ。
難しいことをやっているのとカッコいいですからね。
話題になるのはなぜ?
それくらい読んでいてキツイもんですから殆どの人は読んでないと思いますけど、なんせ題名がカッコいいから売れたんだと思います。
そういうのって響き、音楽的感覚だと思うんです。
たとえ文字表現とはいえ見た瞬間に音を知っている人は音情報も感じるわけですよ。
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小説に限らずベストセラーっていうのはそういうもんですよね。コアなファン以外の普段、興味ない、関係ない人がどれだけ興味を持つかが大切です。
普通の人が共感できる世界じゃありません。
だからこそ価値があるんですけど。
普通の人が分からない世界に触れることも小説の醍醐味でしょう。
「わからない」世界があるということを感じるのも実用的だと思います。
なんでも理解可能な世界だと思って暮らしていると苦しいですからね。
繰り返しますが殆どの人は読めませんよ。本物の芸術というのは大衆受けしないんです。
純文学には慣れが必要
勿論すごく面白いんですけど、まともに読めるようになったのは25を過ぎてからでした。それくらい純文学というのは慣れが必要なんですね。
近頃はやたら倫理を求める傾向が強まってますけど、その空気に慣れ切った現代人が気易く読むと、ものすごく非倫理的でびっくりしちゃうと思います。
おまけに普段使わない言葉が出てきたりしますから読み慣れない人にはきついんです。
そういう場合は短いものから読んだほうがいいです。以前そのことについて書きました。
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じゃ何でこんなもん読む必要があるのかって、芸術は必要だからあるんじゃなくて人間であれば芸術的にならざるを得ない時があるんだと思います。
必要とする人がいるからセールスが成立するんですけど、かといって殆どの人には関係ないというのが芸術です。
じゃあそれを知らなくて死んでいいのか、知らずに死んでもいいというのは其々の美学だけの話だと思います。
これが現実にある。もしくはもっと酷いことがあるのが現実でしょうけど、その一端を知ることで何かの役に立たせようなんて本来は野暮な話です。
ただただ「ありうる」世界、可能な世界を、このまま生きていったら見なかったであろう環境を見ることができるのが小説の面白さでしょう。
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それくらい自由な、可能世界を見られるのが小説の醍醐味の一つだと思います。