ノーミソ刺激ノート

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国語教師にとっての「古典科」

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「古典」をどのように考えたらいいかというと、日本語の根本が古典だという事です。

根本は知らなくてもいいことですが知っているほうが人間らしいんですよ。

いわば実際に見せるところではないけど重要な働きをしているバックヤードのようなものです。

 

「古典」はスーパーのバックヤード

根本を何で知る必要があるかといえば現代では使われないことはを知ると、実際使ってている言葉が変わるからです。

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スーパーで働いている人はお客さんが来るところだけではありません。

バックヤードと言って商品を保存したり仕込みをしたり、仕入れるトラックスペースがあったりして、実際充実した店舗であるほど、バックヤードが広く、仕事がしやすい雰囲気になっています。

 

でもこれは多くの人に理解して貰う事はほとんどありません

一般的に国語の先生って他の先生よりも言葉の使い方が違いませんでしたか?

でも何がどう違うかという事は説明しづらいと思います。

それは国語の先生の中にある根本的な言語領域、言語のバックヤードが広いからなんですね。

 

スーパーなどのバックヤードは対外的に見せるところですが、そこが正常に働くにはバックヤードの忙しさが根本にあるじゃないですか。

スーパーに概観をいかに奇麗に見せても、根本的な働きがなされていなければお客さんに喜んでもらうような仕事はできませんよね。

 

一方、そこまでバックヤードに力を入れなくても外観を良くすれば一応の格好は付きます。ですから古典はバックヤードなんです。

 

間違ってはいけないのは難しい言葉を使う事ではありません

バックヤードでは店長が経営のために考えを練る事務所もあります。

その数字や戦略は人に見せるものではありませんし、見せても意味はありません。

しかしそういう仕事をちゃんとしないと長期的な経営はできないわけですよ。

 

先生は職業上難しい言葉は使わないでしょう。しかし何かが違う。それが古典的教養なんです。

 

言葉に限りませんが「モノ」には使い方と使われ方があります。

 

発露する言葉と隠れている言葉がある。


隠れているのは自分の言葉です。人には言わないけど留めることばってありますよね。思っているだけの言葉です。

 

古典は、いわば隠れている言葉になります。

 

現代人で古典語を使う人はいません。でもその知識は隠れているだけでその人の思考方法にはそれが息づいているんですね。

でもこれって実際に体感しないと気づけません。

 

  1. 古典を学ぶ
  2. 現代語を使いまくる

 

というステップを踏まないと古典を学ぶ意義を感じることはできません。

これは断言できます。

何でかと言ったら教師のようにタダタダつまらない授業をやっているだけでは古典的感覚を言葉の中で感じる機会って少ないんですよ。毎日話をするにしたって。

 

古典を専門的にやっていた人なら、恐らく10年教師をやっていたくらいで感じることかもしれません。

 

でもブログは内容を濃く、しかも大量の情報をアウトプットできるので分量の点で全然違ってきます。

 

私は半年で250記事書いてきました。その文字数は1記事、平均して2500字くらいだと思います。

となると、

 

250(記事数)×2500(文字数)=62500(総文字数)

 

になります。

一般的な大学の卒業論文が20000字でしょうから、論文6本分書いていることになります。

論文は推敲の必要だし、資料の読み込みも必要ですけどそれにしてもグダグダ半年くらいかけて論文書くよりも稚拙ながら素早くブログを書いたほうが頭がよくなる感覚があります。

 

ゼロ秒思考

ゼロ秒思考

 

 

これにも書かれていることです。この本にはA4に書きまくれという事でした。

それは大いに賛成です。そのことは下のリンク記事に書いています。

 

卒論、論文やレポートの必需品 - ノーミソ刺激ノート

 

何にしたって正確さよりも量が大切なところがあるじゃないですか。

 

国語の先生が授業用のレジュメを作成するにしたって

私は半年間ブログを書きまくってますけど、古典的教養を披露することは実際少ないです。

書いてはいるんですけどアクセス数が見込めないので何となく書く気が起きないんですよね。

でも古典自体はしょっちゅう読んでいますからその気持ちが昂った時に書いたりします。

そうでなくてもいろんな内容を書きますけど、書いていて感じることは現代語を書いていても古典的な感覚が言葉の構成に出てきてるんですね。

 

「全然感じねーよ」

 

と思うでしょう。恐らくそう思っているのは私だけです。が、それでいいんです。なんでかと言ったらそれがあるおかげて止まらずに書き続けているんです。

 

普通の人はこんなに長々と文章を毎日書くことはできません。

何で書いているかといえば古典的教養の恩恵が大きいんですね。

別にそれがなくても書くことはできます。が、先述した通り言葉の使い方が違いますし、言葉が次々出てくるようになります。

 

つまり人に話す、発露する言葉というのは氷山の一角のようなもので、自分の、隠れている言葉というのはそれを支える下の氷のようなものです。

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