「細部」とは「本質」
「大事なものは目には見えない」
っていう『星の王子様』の言葉がありますね。
本当に大事なものは、
「これ」
と誰もが分かる、「一点」のようなものではなくて、
「関係性」
つまり、「線」なんです。
物事は、一点だけが重要ではありません。
仏教でいう「縁起」。
つまり「関係性」です。
それによって「意味」が生まれます。
水素分子H2と酸素分子O2が一緒になって「水」になるように、繋がったことで「働き」が生まれます。
この「働き」は、一つに集中しません。
全体に広がります。
だから、一見すると、「細部」になるんです。
- 「働き」
- 「細部」
- 「本質」
- 「神」
は、この言葉においては同じ意味です。
分かりにくいでしょうから、例を挙げます。
例:「母親」の「神」とは何か
例えば「母親」について考えてみると、
- 料理が完璧
- 掃除も完璧
- 旦那と愛し合っている
でも
- 育児放棄、虐待している
もうこの最後で「だめ」という事になるでしょう。
逆に言えば、上の三つが全然ダメでも最後の一個だけ「子のために尽くしている」だけで「良い母親だ」という話になってもいいはずです。
つまり「母親」というものの「神」(神髄)とは
「子を愛する」
ということでしょう。
それは「母」は「子」がいなければ、「女」か「妻」だからです。
その「子」を蔑ろにしているのでは話にならないでしょう。
これは「分かりにくい」ものでも何でもありません。
何となく全員の中で「母親とは何だ」というものが分かっているはずなんです。
じゃあ「細部」って何かといえば、その動き、働きに「神」を感じるかでしょう。
「神」というのは止まっているものではなく、「働き」だと思います。
分かりにくかったのは、何となく「神」というのはドシンと構えて不動のものだと勘違いしているからです。
「働き」という「動き」だから凡人には理解しづらいんですね。
その一点の働きによってその他の関係性が成り立っているということです。
「コンテンツ」における「神」
この本にその他の例があったんですが、著者の高瀬さんはTVプロデューサです。
「神は細部に宿る」について、高瀬さんが「戦闘中」という番組を作る際に、その番組で使用する小道具であるボールに時間とお金を賭けたという事が書いてあります。
⇓このシリーズです。見たことがある人も多いと思います。
それは敵対する芸能人のチーム、個人同士で、広いフィールドを走り回りながらそのボールを当て合いするという、ドッジボールと鬼ごっこが合わさったような番組でのボールです。
たかが小道具の一つですが、それがこの番組の要(かなめ)であるため、そこに注力したんです。
そしてそのボールが上手く機能する(働く)からこそ、ゲーム全体が面白くなるんです。
ちなみにこの本の目次はこちら。
▼本書の構成
はじめに
序章 コンテンツとは何か
-世の中のもの、すべてが「コンテンツ」
-「狭める」とコンテンツ化する
-コンテンツ化とはマッチングである
第1章 コンテンツをつくる
-「アイデアだけの人」が一番多い
-コンテンツ化は「制約」があってこそ
-すべては「目的」が決める
-コンテンツがコンテンツを生む
-既視感を利用する
-ベタが最強
-生活者の気分を考える
-ターゲットに媚びない
-とりあえずデカくする
-とりあえず伏線を張る
-誰でもつくれる
-「つくる」恐怖を乗り越える
第2章 コンテンツを広げる
-誰にでもではなく「誰か」に刺さるもの
-神は細部に宿る
-二ッチコンテンツとマスコンテンツ
-「〇〇のヤツ」と呼ばれるものを
-「気持ちわるい」が良い理由
-過去に答えがある
-〝いいカンジ〟の言葉をみつける
-「マネしやすい」と広がる
-インフルエンサーに頼りきらない
-変えるものと、変えないもの
-悪ふざけするタイミング
-「続ける」ことで磨かれる
第3章 テクノロジーとコンテンツ
-すべてはテクノロジーの進歩と共にある
-人間の生理に合わせる
-差別化とは「テクノロジー」を入れること
-コンテンツがメディアを選ぶ
-「ムラ社会」への回帰
-LIVE動画の勘違い
-編集動画の時代
-半歩遅れが丁度よい
第4章 コンテンツの終わり
-コンテンツの究極は一般化
-終わらせたフリをして、次に進む
-終われないと始まらない
-ハズれたコンテンツなんて誰も覚えてない
-世に出せる環境に感謝する
-出したことに意味がある
おわりに※赤太字はKECが編集しました
ブログなどのコンテンツを作る時にかなり参考になります。
ブログの書きかたを解説する記事でよく書いているのが、
- 「てにをは」をしっかりしよう
- 誤字脱字は避けよう
- 文字数は800字(または1000字、2000字)以上にしよう
という事がよく書かれています。
しかし、そんなことどうだっていいんですよ。
重要なのは、
- 書きたいことがかけているか
でしょう。
だって、何が読みたいかって、書き手の「本質」でしょう。
「てにをは」を間違えてたって、「あー間違えてんな」っていうくらいなもんで読み飛ばすのが普通です。
そんなものは「本質」「神」でもなんでもないんです。
それにそのうち、それくらいの間違いはAIが勝手に修正するようになるでしょう。
人が「神」だと思うのは、そんなテクニックじゃないんですよ。
情熱でしょう。
だから、10代のアイドルにオッサンが熱狂するんです。
ブログもおなじように、書きたいことをちゃんと書けていれば誰かには突き刺さるはずです。
その為には、ちゃんと文章を整えなくてはいけませんが、多少の誤字脱字があったっていいんですよ。
ブログの場合、テレビのような一瞬が勝負のメディアではなく、長期的に載せることができます。
その長期間で読んでくれる人がある程度いて、その人たちがいい反応を示してくれたらそのブログは成功と言っていいでしょう。
運のいいことに日本語が読める人は世界で1億人以上いますから、1%に突き刺さっても100万人もいるんです。
それに年々人口は減っているとはいえ、どんどん読める人は生まれてくれるわけですから、更に読者は増えるばかりです。
ですから万人受けを狙わなくても十分なんです。
ブログは毎日アクセス数を見ています。
もちろん、たくさんアクセス数があって、いい反応があったり、アフィリエイトで1円でも報酬があったほうがいいです。
だからと言って万人受けして、アフィリエイト報酬が高いものばかり載せているものは、読んでもつまらないし、書いていてもつまらないです。
私も書いてみようかと思ったことはありますけど、そんなの誰だって書けることだし、読者の方だって見飽きるしサメるわけですよ。
じゃあどういうものがいいかって言ったら、その人にしか書けないことでしょう。
そんな特別なものはないと思うかもしれません。
が、同じ体験をしている人は二人としていないので、そのことを書けばオリジナリティは簡単に作れます。
面白い!って思えるものって、驚きを伴う、「この人も俺と同じだ!」という出会いのような共感でしょう。
みんな同じような共感であれば驚きもしないでしょう。
「あーよく聞くよね。わかるわかる」
って感じです。そんなの読んでる時間なんか無用ですよ。
「神」の定義
コンテンツを作る時に「ここがいい」と思う所だと思います。
例えば2000字の記事を作る時に、一言一句、力を入れて書くことは可能でしょう。
しかしそれが一年二年と毎日投稿していく中でそれをすることは可能かといえば不可能でしょう。
でも毎日投稿できて、結果を出している人はいるわけです。
私も基本、毎日投稿、またはそれ以上をしていますが、一日に書くもので最高の出来だというものは一つもありません。
なぜかといえば自分で書いたものを良いと思うには自分自身から離さなくてはいけないからですね。
人間が「神」という概念を作った時、それは西洋的な一神教であれ、そのほかの多神教であれ、それは自分でない何か、つまり自分自身から離れた他者であることは間違いないわけです。
人と違う発想に至るには(新発想を得る手引き) - ノーミソ刺激ノート
そもそも人間が「神」とするのはどれのことだって曖昧なんです。
それはそのはず、人間が作り出した言葉(概念)の中で一番抽象的なのが「神」だからです。
だから再現性のある答えはありません。
個人で書いていくうちに「これかな?」と思えるものがその時点の答えなんです。
だからこそ過去の自分と未来の自分が分離した時に書きなおす(リライトする)ことが効果的なんです。
利益につながるブログについて考えてみた。 - ノーミソ刺激ノート
「神は細部に宿る」とは何か
一応、ネット上に出回っているものを載せておきます。
英文では【God is in the details.】である。 発祥については不明確で、一説にはフランスの作家ギュスターヴ・フローベールの言とされる。 これを有名にしたのが、ドイツの建築家であるミース・ファン・デル・ローエとドイツ美術史家のアビー・ヴァールブルク、オーストリア系ユダヤ人であるイギリスのエルンスト・ゴンブリッチだとされている
一応わかりやすい引用文を載せましたが、これはあくまで事実であろうという事を載せたまでです。
この文章自体が素晴らしいとは思っていません。
「神は細部に宿る」ってどういう意味でしょうか。
ちなみに、この引用文の後には「意味」として
本当に素晴らしい技術やこだわりとは、一見して分かりにくい……という意味。
って書かれていますけど、これは全然違うと思います。
この文章を書いた人はよくわかっていないで文章を書いているんでしょう。
こういうことに騙されないようにしましょう。
それくらい、これは分かるようでわかりにくい言葉なんです。
なぜ違うかといえば、「分かりにくい」ことは本質でも何でもないからです。
こんなの読んだって「だから何?」という感じでしょう。
それもそのはず。全然その先の思考まで行っていないからですね。
「思考」は続けようと思えば堂々巡りになるまでのところまで行けることが本来の思考だと思います。
しかしこの結論ではブッツリ切れてしまうのでマズいんです。
じゃあ何かといえば、上にあげた、「母親」の例で分かると思います。
つまり「働き」。「動き」。
思考と言葉は点と線の関係
「思考」は線として永遠に繋がっていくもの。
私は大学院で哲学を研究していました。
哲学というのは他の科学とは違って「再現性のあるもの」ではありません。
しかし人間はいつまでも考え続けますから、それぞれの時代で言葉を編み出していくわけです。
これってなんだ、あれってなんだ、と考えて一応の答えは出しますけど、場合が違えば表現する言葉も違ってくるんです。
ですからそれ自体に終わりはありません。
しかし「ここでの問題ではこれだ」という一応の点として言葉、答え、を用いることができるんです。
上記のような引用文の説明では、じゃあその「分かりにくい」ものってなんだって話になってしまいます。
しかし、それを突き詰めても「これだ」というものは見つかりっこありません。
ですからこの問い自体が時間の無駄なんですね。
ある物事の場合、細部なんか気にせずに、大体のことが素晴らしければOKだと思うのが普通でしょう。
しかしそんなことはないんです。