結論
- 速く得る➔文字情報のブログ
- じっくり浸透させる➔勝手に流れる動画
といった感じ。
ポイントは、
- ブログ:文字情報
- 動画 :映像・音声情報
っていうことですね。
文字情報は音声化していないので早く情報を得ることが出来ますし、公共の場所でも調べることが出来るので場所を選びません。
動画の場合は、分かりやすいんですけど、時間がかかるし、音声が伴っていることが多いので、場所を選びます。
既に知っている情報だったり、簡単な単語を調べるだけならブログがいいでしょう。
でも、例えば普通の人が医学や宇宙、哲学などの高等な知識を知りたいときがありますよね。
それは、本当は本を買って調べることをおススメします。
【読書のメリットに関してはこちら】
文字情報もネット上には転がっているはずですけど、その場合、素人が無責任に編集した情報が多いのが現状です。
Googleの検索機能の向上で少しずつそういう問題は解消されていますし、大学などの研究機関もそういう情報を公開している場合が多いです。
でも高等な学問の情報ってわかりづらいんですよ。単語とか。
そういう場合は、動画を見たほうが良いんです。
動画を見ても分からないことが多いかもしれませんが、分からなかろうが、止めなければ勝手に進みます。
勝手に進んで全体像を見たら、「なんとなーくわかる」感じがするじゃないですか。
文字情報だと、途中で分からないことが続くと挫折してしまうようなことでも、動画だと挫折しづらいという利点があります。
要は使い方次第です。
それぞれの特徴
動画の特徴
- 絵、動きなど情報が一度に入るので覚えやすい
- 知らなくてもどんどん進む
ブログの特徴
- 余計な情報を抜きに情報を速く仕入れられる
- 知らないことが続くと嫌になる。
文字情報で得たほうがいい理由
イケダハヤトさんは「ブログのような文字情報のほうが速いのにな」という事を言ってました。
確かに速さで言えばブログ、読書などで得る情報のほうがパッパとみられていいです。
だからブログを見ている人のほうが知的レベルが高いのでしょうか。
大学受験の時に思ったことですが、勉強の面で言えば、速さは絶対に自習のほうがいいですよね。
じゃあ何で授業があるかといえば、音声や生身の人間、先生の話す態度や、先生とのコミュニケーションによって、自習では得られないものがあるからですね。
私も未だに高校生用の授業を動画で見ることがあります。
下手な学校の先生よりもネットでいい先生の授業を見たほうが勉強になります。
しかもいくら興味のないことであっても授業だからという理由で強制的に情報を得られるわけです。
ですから子供の対しては最適でしょう。
しかしずっと動画ばかり見ていていいかと言ったらそんなことは無くて、効率よく情報を得るには文字情報のほうが内容が詰められますし、スピードも出せます。
必要ない情報は自分で飛ばして読めばいいだけの話です。
ですから基本的に高校生以上の大人になったら本を読んだほうがいいです。
いわば、
- ブログ➔自分で歩くような感覚
- 動画➔音楽のように動く歩道に乗っているような感覚
ですね。
だからブログの場合は知っていることは走るように読み進めることができます。
動画の場合も自分で飛ばすこともできます。
さらに動画によっては倍速にすることもできますが、それでも限界がありますし、変に飛ばすと編集の都合で理解しづらい場合もあります。
確かの文字を読むには動画を見るよりも頭を使います。
じゃあ何でもブログで得たほうがいいかというと、そんなこともないんですよ。
動画で得たほうがいい情報
まだ何も知らない情報は動画のほうがいいかもしれません。
絶対的にそうだとは言えませんが、子供の場合はそうでしょう。
文字情報を得るにはスタミナがいるので、慣れていないときや、疲れているときは動画のほうが頭に何となくいてることができます。
こんな時は動画がいいでしょう。
- 詳しくない情報の時
- 子供の場合
- 疲れているとき
例えば宇宙科学に関することを私はよく動画で見ます。
それはあまり詳しくないからです。
大学などで高等教育として宇宙科学の知識を得ている人であれば文字情報で事足りるでしょう。
結構前の動画ですけど、面白い動画です。
しかし私のように基礎的な情報を持ち合わせていない場合、知らない単語がポンポン出てくる文字情報では読んでいるうちに嫌になってしまいます。
しかし動画の場合だと勝手に話が進むので感情に関係なく話が進むんですね。
知識というのはイチイチを理解しなくてもいいんです。
「なんとなーくわかる」っていうものを何度も繰り返すことで本当の理解に近づきます。
「何度も同じことを見てバカみたい」と思う必要もありません。
子供は何回だって同じ作業を繰り返すじゃないですか。
世の中の天才と呼ばれる人もそうなんです。
繰り返すことを嫌う人が凡人なんです。
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全体像を見ておおよその点を掴む事がまず始まりです。
その後にそれらをつなげる作業があって、徐々に全体像を観ます。
全体像がアラカタ見えたら、それを解釈できるレベルが知的作業のプロ、所謂「博士」の領域です。
知的な人になりたい
知的な人になるには段階があります。
その段階はおそらくこんな感じです。
知的な人の段階
- 何も知らない
- 点のようにもとになる情報を掴む
- 点を増やす
- 点が線としてつながる
- 全体像を体系として掴む
- その体系を自分で解釈する
普通の人の所謂「知識人」「詳しい人」と言われるような段階は4までの段階でしょう。
「体系」というのは一つの原理でつながっているシステムのことです。
知識は個別だけを見ても意味がありません。
例えば宗教の教義は切り貼りで進めていってしまったらカルト宗教のように、メチャクチャになってしまいます。
その代表が「オウム」ですね。
オウムはあらゆる宗教の教義を取り入れました。
そうなるといいものができそうじゃないですか。
でも、まともな教義というのは一つの理論、観念で筋道が通っているものなので、その一個だけ取り出すとあらぬ勘違いを産まれてしまいます。
例えば浄土真宗の教義に「悪人正機説」(悪人こそ浄土に行ける)というものがあります。これをそれだけの言葉で聞いたら「なんてめちゃくちゃな」と思うでしょう。
しかし全体の話を聞くと納得できるんです。
この宗教哲学を作った親鸞(しんらん)自身も「この思想は勘違いしやすくて危険だからムヤミヤタラに使うな、伝えるな」という事を言っています。
そういうことは『歎異抄』に書かれています。
「100分de名著」のやつは分かりやすいです。
「解釈」というのはストーリー、物語のように、自分の中でその体系を今までになかった事を自分で解釈できるレベルです。
「博士」のことを英語で「Ph.D」という事がありますが、「Ph」とは”philosophy”(哲学)のことで、その学問領域を哲学的に解釈できることを意味します。
つまり学校教育で得るよりも人に自分の編み出した教義、哲学を解釈する立場の人です。
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