「頑張る」を推奨される
小学校の頃から、運動会とかで「頑張れ!頑張れ!」が暗示のように使われてました。
今はどうか知りませんが、「頑張ること」って推奨されてましたよね。
「頑張っているのはかっこいい」という言葉も流行りました。
それは「頑張っているのはダサい」という不良的な思考があるから、その反論としてだと思うんですけど、それってちょっと「かっこよさ」という曖昧なものに基準を置いているので、まともな反論じゃないと思うんですよね。
それこそ無理してる感じがします。
なんだか「バカって言ってる自分がバカ!」というようなノリの感じます。
それも一理あるかもしれませんが実状はそこまで単純な事じゃないと思ってます。
頑張るか頑張らないかは選択によるんです。
例えば勉強したいのに学校では勉強できる雰囲気じゃないという事だってあります。
その場合はその教室にいなければいいんですけど、実情は上手くいかない時だってあります。
状況を見て最善策を考えましょう。
- 先生に相談する
- 教室から離れる
- 図書館へ行く
- 保健室へ行く
など色んな策はあります。
このように、「選択する」というのは少しパワーがいります。なぜなら人間は現状をそのまま受け入れる方が楽だからです。
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それを変える力こそが「頑張る」という事でしょう。
瞬間的に頑張りさえすれば現状が打破できるかもしれません。それが「状況による」という所です。
ですから年がら年中無理して頑張っていては体がもちません。
「頑張り」のダサさ
「かっこいい」と言っている本人も頑張っている「ダサさ」に少し同調しているんじゃないかという気がするんです。
じゃあ、なんで「頑張っているのがダサい」と思うかですけど、不自然からくる違和感だと思うんです。
例えば「ぶりっ子」を嫌う人がいますけど、それも「不自然からくる違和感」じゃないでしょうか。
これはどこまで行っても好悪(好みと憎み)の問題です。
好悪の問題は気分によっても違いますし、立場によって変わるものですから物凄く曖昧な問題で、絶対的な答えはなく相対的な問題ですから、
でも私は頑張っていい結果が出たことが無いんです。
受験勉強も、運動会で走ることも、苦手ですけど頑張って結局いい結果は出ませんでした。
むしろ褒められたのは遊び感覚でやったことだけです。
例えば文章を書くこともそうですし、図工、美術で絵を描くこともがんばってやったことではないのにクラス代表になったりしました。
こういう事って万人に相当することじゃないかもしれません。
人によっては「頑張ること」自体が好きで、それが才能という人もいるでしょう。
私は警備のバイトを今まで2つの会社でしていましたけど、頑張っている人と適当にやっている人がいました。
仕事による選択
警備の仕事というのは無理をする、根性で乗り切る場合と、それほど根性はいらない場合とがあるんです。
「頑張る」って、私は苦手ですけど、世の中にはそれを生き甲斐にする人も結構います。
— KEC@難解読書@ブログ@経済 (@kec_twitt) 2018年11月5日
肉体労働の時は同じ人間とは思えない重いものを連続で運んでる人もいますし、
警備の時も炎天下で立哨を何時間もしてそれを誇らしげにしている人もいました。
そんな人を否定しかねないので一概に否定できません
ですから自分と違うからと言って否定するわけにもいきません。
そういう人がいるからこそ、自分にはできない仕事をしてくれている人がいるんです。
一方、そういう人がいてくれくからこそ、自分には向かない仕事はしなくてもいいとも言えます。
どういう方向に進むかは、結局「選択」なんです。