「難読書好き」は「読書好き」とは限らない
難しい本を読んでいる人は、子供のころから本を読んでたんだと思ってませんか。
そんなことないんですよ。
なぜなら「難しい本を読むことが好き」っていう趣味だから。
そういう人は多いでしょう。
じゃあどうすればいいかというと、難しい本関連の「簡単な本」から始めるんです。
岩波文庫などの難しい本をいきなり読んでも「積読」(積まれるだけで読まれない本)になるだけ。
スラスラ読めない本は「積読」になりやすいんです。
一回積読になったものは、何か意識を変えないと読むことはありません。
そうするのに一番簡単な方法は、
- 補助の本
- 入門の本
- 漫画の本
を先に読めばいいんです。
つまり、「あ、ちょっとわかったかも」っていう感動を一回味わうことですね。
「たくさん読む」目標があるなら、以上の3種類の本が充実してる本から読み始めるといい。充実してる本は、当然、「古典」「名作」が多いです。
今はいい本がたくさんあるのでどんどん読みましょう。
買うのが大変だと思うかもしれませんが、この手の教養本は図書館に置いてあることも多いです。
せっかく読むんなら、簡単な本ではなく難しい本を読みたい。
私は特にそうです。
「読書」といっても、色んな本があるので、全部のジャンルが読めるとは限りません。
私は日本人の中で難読書を読むほうですけど、本格的に読書をし始めたのは大学生からです。
ここでいう「難読書」は、
- 外国文学
- 古典文学
- 哲学
- 宗教学
などの本。
これを高校生のころから読むのは、人生経験的にも難しいし、「受験」というものがあるので読むに読めません。
こういう本を読むには何せ、時間がかかるんです。
私はこれらの本を読む訓練を大学院でやっていたので、普通の人の読書の力との「差」を感じています。
大学の頃から本を読むようになりましたが、それ以前は「読書」に憧れはあるものの、ほとんどの場合は寝てしまうのが常でした。
でも、簡単な本は読む気はしません。
読書が嫌いだからこそ、難しい本を読んでしまって、時短しようと考えていたような「質」(タチ)です。
ツイッターの「読書アカウント」をみると、中高生たちは主に「泣ける小説」などの「エンタメ系」を読んでいるんですね。
今、立ち読みでそういう本を読んでみると、確かに高校生に頃の私の頭だったら読めていたものだと思います。
でもハッキリいって、それを読んで将来にわたって価値があるとは思えません。
もちろん、文字を読む練習、読書に抵抗感を感じない練習にはなるでしょう。
でもそれ自体に快楽を感じていては「難しい本」は読めません。
「難しい本」はそのための訓練をしなくちゃいけないんです。
読書をする人には、
- 「子供のころから読書家」
- 「大人から読むようになった」
2パターンありますけど、「始める時期」は難しい本を読む力に関係無い気がします。
「子供のころから」読んでる人でも、簡単な本ばかり読み続けてる人が多いです。
なぜなら、人は読む意思が無ければ読まないからですね。
それは当然で、児童文学やエンタメ小説を読んでる人は好きで読んでるんです。
読むこと自体が楽しいんですね。
一方、哲学書や古典文学を読んでいる人は、楽しんでいる半面、「難しさ」を読むことを楽しんでるんです。
なぜなら、読めた後はその後の人生、ずっと「難読本」を「読んだ」という自信や、「古典的・普遍的価値観」を身に着けたままにいられるからです。
その他にもメリットはありますが、それは無限大です。
俗な言い方をすると「コスパがいい」んですけど、それとも違う気もします。
ここに価値観の相違があります。
- エンタメ本好き⇒読んでる瞬間だけが楽しい。
- 難しい本好き ⇒読めた後の生涯にわたって楽しい。
ですから、同じ読書と言っても競技が違うんです。
これは私だけのことじゃないです。
私の場合は「難しいことを読んでいる」という事自体に快楽を感じますし、「分からない」と思いながら、考えることが楽しんです。
とはいえ「ずっとわからない」というのは全然楽しくありません。
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「マンガ版」 を馬鹿にする人は多い
まんが版はとてもいいんです。
簡単にあらすじが分かる、あれほどいいコンテンツはないんです。
昔は何時間もかけて読まれた名作が、30分程度で分かる。
一度理解したら、その後の人生で本文も何となく読めちゃうっていうのはすごい。

最大多数の最大幸福 道徳および立法の諸原理序説より (まんが学術文庫)
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マンガ版で読むべきものは哲学書です。
哲学書を1000冊くらい読むと、哲学の大まかな歴史がわかるようになります。
しかし、しっかり人に説明するようになるには、
- 哲学史
- 主要な哲学
この2点を読む必要があります。
【速読可能】まんがで読破を読むべし【多読へ近道】 - ノーミソ刺激ノート
これを全く知らない状態で読むことはかなりのエネルギーを使います。
哲学史は全体のが流れを知るため。 なぜなら新しい哲学は古い哲学を前提だから。
そして読書は2冊同時に読むことをお勧めします。
なぜなら、その方が楽だから。
たくさん読めば、「難しい言葉」の説明もありますし、説明が無くても、いろんな角度からその分野を見られます。
だから、おおよその「勘」が身につきます。
勘がつくと、圧倒的に楽になります。
だからこそ、いやいや読むんじゃ、継続もしません。
どうしても文字を追うのが面倒であれば、「オーディオ版」を読むのも手です。
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読書が面倒な理由
「読書」は主体的な行動です。
人間は人の言うことを聞くほうが楽で考えなくていいので、そちらにナビきがち。
だから原則、読書は面倒なんです。
それは「読書好き」を自称する人でもそうです。
だから読書が苦手なことを卑下することはありません。
それを打破するには、まず、
- マンガ版
- 「100分de名著」のテキスト
を読むのがおすすめです。
なんせ、この2種類の本は分かりやすいし、すぐに読めます。
「難読本」を読む際に、私が気を付けていることは、
「読書」を「テスト勉強」のように読まないこと。
「読書」とヒトクチに言っても、種類によって作法があります。
テスト勉強の時は、興味があろうがなかろうがとにかく読まなきゃいけませんでしたよね。
でも、そうでない読書の場合は、興味があるものを読めばいいんです。
なぜならそうでないと続かないから。
テストの場合は、
- 期限
- 目標
があったでしょう。
でも、普段の読書にはこれがありません。
嫌になるだけだから✖。
- 「読書」は技術➔失敗は当たり前。
- 「楽しく」読めてなかったら✖
という気持ちで、嫌だったら別の本を読んだほうがいい。
「どんな本を読もうか」
でなく
「どうやって継続できるか」
が私の読書の目的です。
とはいえ、こういう目的はすぐに変わると思います。
でも大きくズレたようなことは無いでしょう。
変わるとしても、精密な表現になることはあっても全然アサッテな方向に行くことは無いはずです。
あくまで現状はこういうことかなと思っています。
「難読本」を読みたいという気持ちは、たくさん本を読んでるから出るわけではないでしょう。
私は子供のころから難しい本を読みたいという気持ちがあったんですけど
重要なのは、
「難しい本を読みたい」という意志。
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