哲学は勝手に訪れる
自分で哲学を打ち立てるには、たくさん本を読まないといけません。
中高生の頃は何となく、
「世界はこうなってる!誰もそういう事を考えてない!俺の哲学!」
って思うじゃないですか。
それは普通の人はそんなこと考えないからです。
同級生と比べたら考えているかもしれません。
でも哲学を志す人は誰でも思うことなんですよ。
哲学史、思想史を読んでいくと、それくらいのことはサーっと書かれてるんです。
それでも「ちょっと違うなぁ」って思ったらそれを言語化するためにも過去の哲学を読んで、それを基に言語化するしかありません。
言葉、哲学が文脈と共にあります。
文脈が掴めていないと、人に知らせても理解されません。
団体が話し合ってる時に突然無関係の人が口を挟んでも理解されないのと一緒。
知らせるためには文脈の中に言葉を入れないといけないので、そのために文脈、つまり歴史を知りましょう。
仮に「これだ」という哲学が無くても、大学院で、2年くらい集中的に研究すると、自分の独自の考えがボンヤリ出てくるようになります。
ただ、そうは言っても、具体的に「どんなことを書こうか」っていうのは出てきにくいです。
ですから、哲学史・思想史を読んで、ピンときたテーマがあれば、古本屋や専門店のページを見てその資料を徹底的に集めて読みまくりましょう。
初めは資料集めに苦戦する
結構時間がかかるのが「資料集め」。
「自分の哲学」ですら、頭一つでどうにかなる世界ではないんですね。
たくさん本を読んでいればわかりますが、たった一人の経験なんてタカが知れてるんです。
例えば本を読まない同士の会話の場合では、大概、年長者の言葉に重みが出ます。
でも哲学の本や文学の本を1000冊くらい読んでいると、全く読んでいない人の70歳位の言葉は軽く思えてしまいます。
もちろん体験は重いものですから、読んでいない人を馬鹿にすることはできません。
でもそういう瞬間がたまにあるんです。
哲学が好きな人は頭で考えるのは好きですが、体を動かすのは躊躇しがちです。
その貴重な考えとなる元の本を探すとなると、どうしても体を動かして資料を集めなくてはいけません。
ネットで出来ることは限られているからですね。
ですからとにかく初めは資料を集めることに集中しましょう。
それには、
- どういうものを集めたらいいか
- 値段が高すぎる
という問題が発生します。
そういうものは、担当の教授が教えてくれます。
大概は図書館で見つかります。
自分の大学にある場合もあれば、遠い大学にあるかもしれません。
貴重な資料の可能性もあるので、コピーできるのかどうかも問題ですね。
⇓便利なのはここです。
指導してくれる先生や、先輩に頼ってみることも重要ですけど、何より大切なのは自分で読むことです。
本を読むには時間がかかりますから、まずは集める、読みこむを徹底しましょう。
そして学部4年から更に5年研究して博士課程まで行くと、もしかしたら自分の研究論文が書けるかもなっていう世界です。
でも、文系研究はたくさん本を読まないといけないので、奇麗に博士課程3年で博士論文を書けることは少ないですけどね。
宗教でも、宗派が分かれるじゃないですか。
それは完全に分かれていることではなくて、
- 表現
- 解釈
が変わっていくんです。
言葉が変化するのと同様で、ちょっとだけ違和感を感じてくるんです。
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「哲学科」に入るとどうなるか
大学の哲学科に入ると、哲学史を勉強することになります。
しかし学部4年間やったところで、
「結局哲学って何だったの?」
と思うばかりで、自分の考え(哲学)なんか浮かびもしません。
これはこれから哲学を大学でやろうとしている人からすればガッカリするかもしれません。
そもそも何で歴史を勉強するかといえば、
「今までの哲学はこのように考えられていました」
「人類に貢献できるようになるには、これ以外のことを生み出しなさいよ」
ってことです。
既にある商品をまた別の人が作ったって無意味ですよね。
マクドナルドのような商品は二つ要らないんです。
だから「高級志向」や「和風」や「本格派」という色の違うものが出るんですね。
でも、哲学の歴史を勉強したところで、全員「難しい」と思うだけで挫折するのがオチです。
なぜなら、「ある哲学」が生まれるには、歴史的な背景があってこそ生まれます。
そうなると、そこから考えなくてはいけなかったりするんですよ。
歴史を勉強してても「昔の人は馬鹿だな」って思ったことありませんか。
それはその時代では常識だった、普通の考え方だったからです。
だから今の常識も100年後の人からすれば馬鹿にされるようなことばかりのはずです。
このような「時代ごとの知識・常識の枠組み」をフーコーは「エピステーメー」といいます。
大体、哲学をやろうと思うような人って、偏差値が低かろうと、何となく
「自分は人よりものを考えている、立派な世界観を持っている」
と思っているもんです。
Twitterなんかを見てもそういう痛々しいのがいっぱいいます。
でも、ちゃんと哲学の本を読んでいさえすれば、世界規模の哲学の思想にコテンパンにされる感じがあるんですね。
それはもう苦しみですよ。
だから大抵の人はそれに耐えられず、少ーしだけ本を読んで「俺は有意義な哲学を持っている」と思って気持ちよくなるんですね。
でもそれを否定しようとは思いません。普通のことです。
大学院など、人生懸けて哲学研究してる長老たち(教授)のような、圧倒的に自分より研究している人がいる環境に身を置かないと、苦しさを避けるのは当たり前だからです。
20歳の時の私はいろんな哲学の本を読んで
「こんな分からない書き方するのが悪いんだ!」
とさえ思ってました。
そもそもそういう風に思うのは、私だけじゃなく、大概思うんですね。
でも何度も読んでいくうちに何となくわかってくるものです。
もう一つは、今は簡単な「入門書」が出ていますから、それを惜しまずに読みまくることですね。
「難しい本」は時間がかかるものとして受け入れよう
哲学書は理解に時間がかかります。
そもそも何を読んだらいいのかもわかりませんから、資料集めだけでも数か月かかることだってザラですし。
普通にエンタメ小説ばかり読んでいたような人は
「本は読んだら理解できるもの」
って思っているもんです。
でも哲学書はそうもいかないんですね。
まず言葉が分かりません。
人間が考えられることは、経験したこと、体験したことでしかありません。
ですから20歳そこそこの人間が考えつくことは、3000年くらいの歴史の中では誰かが考えついてることなんですね。
それどころか、その多くの哲学が何を言っているのか理解できないのが現状です。
じゃあ、自分の考えを打ち立てるにはどうしたらいいかといえば、「これだ」って思える、シンパシーを感じる哲学を徹底的に研究することです。
そうすれば、ある程度行ってくると、
- 「ここってこういういい方した方がよくないか」
- 「これって、別の人が言ってたこの事と併せて書いたほうがよくないか」
っていうようなことを、2年くらい大学院で研究しているとボンヤリ思ってきます。
これは誰でも思う事です。
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