ベストセラーが読めない人もいる
「ベストセラー」 の本が途中で挫折しちゃうから「読書が苦手」と思ってしまう人はもったいないと思います。
「純文学」だったら、ストーリーは関係なく、単語や漢字の使い方レベルの表現がミソなので、写真集のように途中からパラパラ見るだけでいいんです。
僕の場合は『ハリポタ』や『セカチュウ』は挫折しました。
画像は太宰『斜陽』古井由吉『鐘の渡り』
こういう「純文学」を読んでも
「何が言いたいんだ?」
と思うのが普通です。
通常、物語を読むときは「ストーリー」で理解することが多いからですね。
「何かしらの教訓があるのかも」
と思って読むわけです。
しかしその「はじめの予想」が違うと、読書は途端に嫌なものになってしまいます。
なぜなら、甘いものだと思って飲んだら酸っぱいものだったとか、その逆も嫌なように、事前の予想と結果が大きくズレていたら人は不快に思います。
ですから、純文学を読むときには
- 共感
- 教訓
- 興奮
があると思わないほうが良いでしょう。
あるのは「芸術的な表現」です。
芸術に触れてみる
「芸術的」ってよくわからないと思うんですけどそれはその人にしかできない表現ですね。
芸術に難の価値があるのかっていうのは人それぞれ意見は有ると思いますが、一つは人間の表現力の可能性だと思っています。
例えば絵画の世界では、今まで宮廷のために写実的に書くことが重要でした。
写真もありませんでしたし。
でも近代に近づくにつれて、「印象派」のように、ボヤっとした絵画が出るようになりました当時はすごく批判される手法だったんですね。
しかし、それはじっくり腰を据えてみてみると面白い表現なわけです。
その後もいろんな表現が生まれましたね。
それは音楽の世界でも同じことです。
「こういう表現の仕方じゃないと駄目」
というようにすると、人間の思いは制限されてしまいます。
本当はこういうことも出来るのにと思いながらもできないのでは創造力が削がれます。
創造力によって人の文化は進化してきたので、表現のやり方は自由なほうが良いんです。
その表現が何に使われるかはわかりませんが、他の分野にも刺激を与えて、結果的に人類全体にいいことが起こると思っています。
なぜなら「表現」は「方法」だから。
方法は、使っても使わなくてもいい訳です。
しかし未来には何が起こるか分からないわけですからその手法だけでも作っておけば、いつか役立つかもしれません。
人間は十人十色ですから、自分が使わなくても他者が使うことによって心が穏やかになって、人に迷惑をかけないという事があるかもしれません。
そういう風に一つ一つの文化に関して意味を付与するのは好きじゃないんですけど、「十人十色」と言ったように、全然分からない人もいますから説明もある程度は必要です。
そういう風に手法、方法は、読むだけで純文学は手に入ります。
「忘れちゃう」
と思うでしょうが、必要な時にはふと思い出せたりするものです。
そもそも使わなくったっていいんですから、その人の表現を楽しむという事からスタートしてもいいし、
「純文学を読めたらかっこいいから」
っていうことからでもスタートしてもいいと思います。
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