中学の頃から僕は「大衆文学」っていうのをあんまり読みたくなくて、読むんなら「純文学」だと思ってました。
とはいえ、開いたは良いものの、何のことやらわかんなかったり、性的な描写は気持ち悪かったりしました。
『限りなく透明に近いブルー』なんか初めの「絨毯」(じゅうたん)が読めないうえに次のゴキブリのくだりがきつくて挫折したりしました。
こういう人は多いでしょう。
でも子供のころの知能と大人になってからの知能が違うように、純文学も大人になったら面白くなってきます。
というのは「人生経験」がものをいうから。
もう一つは何を勉強したかですね。
僕は文学部でしたから何となく授業を受けて文学的なものの見方の素養が身に着いたのかもしれません。
でも大学に言って無くても純文学を読む人はたくさんいますし、作家もいますから勉強したかどうかは補助的な意味合いが大きいと思います。
大学院を出てから小説を趣味がてら読む用になったら何ともまぁ面白いことか。
っていうのは、大学は哲学を中心にやっていたとはいえ、文学部内だったから文学の講義も受ける。で、その文学の何かしらが頭に入っていたのかもしれないけど、文学がまぁ読める。
これは、さっきの大学の頃の知らんうちに入ってた「文学」じゃなくて、所謂「人生経験」っていうやつが大きく関与して読めてきたんだと思ってます。
例えば谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』のここらへん。
「日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹ようかんの色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉ぎょくのように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。」
中学の時だったか、この箇所を読んで「何を言っとんじゃ」と思ったけど、今になって読むと何ともまぁ味わい深い、なめらかな文であろうか。
つまり人生経験で純文学は読めるようになってくる。
とはいえ、読めない漢字が出てくる場合があるけど、それはその都度調べるか、飛ばすかしてでもゴリゴリ読み進めればいい。
一方、中学と高校のころの僕といえば、「純文学」を読みたいとは思いながらも読めないわけで、村上龍の『69』とか金城一紀の『GO』とかのなんとも読みやすい青春小説で誤魔化してました。
ですから禅譲読めなくてもいつか読みたいと思っていれば読めるようになってきます。
チャンスがあったら立ち読みをするのもおすすめです。