2つのパターン
何でこの文章は気持ち悪いんだろうというと、
「何かを隠している感じがする」
ってこと。
簡単に言えば
- 「自慢」のような自分を上げようとする気持ち
- 「卑下」のような他人を下げようとする気持ち
この2パターンですね。
もう少し細かくすると
- 自分はすごいんだ
- こういう言葉を使える
- こういうことを知っている
- こいつを下げたい
- こういうやつが悪いんだ
っていう感覚が、受け手としては、そこに書かれていなくても感じてしまうんですね。
なぜなら自分でも「醜い」ってことは分かっているんでしょう。
無意識にでも。
分かりやすい例でいうと、
東大出身者が大学名を聞かれたときに、あえて「東京の大学です」とか「東京の国立大学です」っていうように話す場合ですね。
東大以外の人間なら
「ん゛~!!だったら東大って言えや!」
って思いますよね。
まあ彼らの事情も分からなくもありませんが。
なぜ受け手が「気持ち悪い」と思うかといえば
「隠していることに気づいてしまう」ってこと。
ですからできるだけ素直に書いたほうが良い。
書きたくないのであれば、持って回った表現をせずに、書かないほうが良いです。
誰でも経験すること
この本にも、そういう事が書かれています。
友だちとの会話にちょっと行き詰まった、数年まえのある日、私は、自分の発言の動機を探ってみたことがある。
いやな自分を見てしまった。それは、私はすごいんだ、ということを相手に見せつけたい、という「自慢」だった。
こういうことって誰でも経験してると思います。
会話の途中で、ふと聞き手の反応が悪くなるって感じが僕にも何回もあります。
あれって何だろうと、後になって思うとやっぱり自慢っぽくなってしまったり、人を貶めようとする「いやらしさ」が出ているんですね。
ですからそういうことは聞き手や読者にバレるので、書くときは素直に書いたほうが良いってこと。
でも日常生活でも素直になるってことは難しい場合があるじゃないですか。
僕もブログを書いているのでそういうことが起きないように、毎日見直してできるところは書き直ししています。
すると昔の記事でおかしい所があったりするので、文章の場合はとにかく書きまくるしかないんだと思ってます。
鏡を見て身なりを直すのと一緒ですね。
政治的なやり取りの場合は目に見えて敵対している考えに正面切って当たっているものもありますけど、そうでもない文章の場合、目に見せようとはしない、敵対意識が見えてきたりします。
書いてる本人も、無意識しそういう所は見にくいからと思っているんでしょう。
だから隠していて、変な言葉を切り張りしてる感じがして、流れに凹凸感がある。
そこが気持ち悪さのキモですね。
読解力とは無関係
それは特別に読解力が無くても感じることです。
何でそういう風に「隠し」のようなものを感じるかといえば、文章のリズム感が途中でおかしくなるんです。ガタついているというか、不自然なんですね。
語彙力が無い場合、適切な言葉が見つからずにへんな文章になったりすることはあると思うんですけど、それとはまた違った「いやらしさ」が見える。
そう考えると、そういうものが見えないものは割とスムーズに入ってくる。
例えば名作小説なんかは事実じゃないことの連続なのにズイズイ読めてしまう。
あれは事実は嘘でも、本当にそういう気持ちになって作者が「素直に」書いてるからでしょう。
気持ち悪い文章もそうですが、そういうことを知ったうえで名作という小説を読んでみると、今までにない発見がありますよ。
一旦あきらめたものでも、読み切ったと思っているものでも、発見は必ずあります。
自分で書いた文章でさえ発見があるんですから。
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