「バカ」とは
ここでいう「バカ」とは「自分で考えられない人」のことです。
でも殆どの人はそうなんです。
わたしもそう。
自分の得意分野なら考えられることも多いですが、多くの場合は人の意見をそのまま受け入れます。
それは楽でいいんですけど、そればかりでは「バカ」なだけです。
人間全体のうちの一方でバカな分にはいいと思います。
が、全部が馬鹿だと、人に利用されかねません。
だから、少し賢くなったほうが得です。
純文学の読み方
純文学を読むとそれが少しでも解消されます。
なぜなら「言葉」を得られるから。
純文学で得られるのはストーリーでもなく、教訓でもありません。
その作家の独自の言葉でしかありません。
僕は純文学の感想文をよく読むんです。
そのほとんどの人は
「こういうことが書いてある」
「こういう教訓を得た」
みたいなことばかり。
エンタメ系や、ビルディングロマンス(成長小説)ならいいでしょう。
でも純文学は「教訓」があると思うと面白くない。
なんせクソ主人公が多いですからね。
じゃあ何を得られるかって「言葉」だけなんです。
え、それだけ?
と思うでしょうが、それが重要なこと。
小説に何か「教えてもらおう」と思うのは子供の読み方で、大人が読むんなら主体的に読んだほうがいいでしょう。
主体的に読むっていうことは作家が「こうだよ」と示したものを
「はいわかりました」
っていうのではなくて「本当にそうか?」と疑問を持って、
「解釈」すること。
こういうことって中高生には難しいんですよね。
とはいえ大人になってもできないです。
ちゃんとできるようになるのは30歳からでしょうか。
「三十にして立つ」(『論語』)って言いますし。
「言葉」とは
「言葉」が得られると書きましたけど、「言」と「事」は、古代日本語では漢字がありませんでしたから音としての「こと」しかありませんでした。
つまり両者の区別がありません。
だから語源が一緒ということ。
要するに言葉は「事柄」や「事件」だということ。
『万葉集』の「言葉」(やまとうた)の考え方としてこういう言葉があります。
やまと歌(うた)は、人の心を種(たね)として、よろづの言(こと)の葉(は)とぞなれりける。
(日本の歌は人の心を種として、森羅万象のこととなります)
つまり「人の心」が言葉になるということ。
これは普遍的なことだと思いがちですが違います。
ヨーロッパ諸国では『聖書』が読まれていますよね。
その「聖ヨハンの福音書」での言葉の解釈は「初めに言葉ありき」。
つまり人よりも言葉が先なんです。
ということは人間が思っていることよりも先に客観的な「秩序」(言葉)があって、人間はそれを発見するんだという態度。
だからこそ科学が発展したということもあるでしょう。
だから西洋の言葉では主語が絶対必要。
それが西洋語のメリットではありますが、日本語は主観的なので自分で言葉を作り替えるのが簡単なんです。
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言葉が得られるということは自分で言葉を作りかえることができるということです。
作文でもブログでもそうですよね。
ということは「事」も作りかえることができるということ。
これが「解釈」です。
解釈が自分で出来るようになると、一般的には「悲劇的」に思える出来事でも「楽観的」「喜劇的」に解釈ができるということで、その逆も可能です。
つまり自分の身に起きたことを自分で解釈することが
「言葉を得ること」。