単純な90年代のストーリーの場合は
- 勧善懲悪(善を勧め、悪をこらしめる)
- 努力して強くなる
という所が大きな要素でした。
『鬼滅の刃』もその要素は受け継いでいますが、要素がより多彩になっています。
その理由はここ20~30年でいろんな漫画が増えたという事でしょう。
そういう先行作品の漫画的表現方法を取り入れたことで
「読みたい!」
「続きが気になる!」
という作品になりました。
具体的には
- 家族の死
- 妹萌え
- 「大正時代」の服装
- 仲間「善逸」の重要性
- 敵の悲哀
- 「柱」の重要性
これらの要素が考えられます。
以上のものは徐々に増えていくのではなく、比較的ストーリーの前半に出されます。
その飽きさせない本質的な仕組みは後半に書きます。
「こんなにたくさんの要素が入ってるからすごい!」
ってことではありません。
普通、こんなにたくさんのものが入っていると、
- 矛盾や破綻が起きる
- 読者の好みが分裂する
という事が普通は起きます。
なぜ破綻が起きないかという事は後半に書きます。
例えば「妹萌え」の要素ですが、これには個人の好みが大きく分かれやすい要素です。
嫌悪する人は本当に嫌います。
とはいえ一定の層には堅固なファンがある。
私自身は実際に妹がいるので、リアルに感じて気持ち悪くなってしまいがちですからそういうコンテンツは避けていました。
でもそんなことなく見られるんです。
これらがバランスよく入っているのでファンの裾野も大きく、かつ長い物語も飽きずに見続けることが出来ます。
「家族の死」の要素
それまでの少年漫画でも家族の死は扱われていても、そこまで大きな要素にはなりませんでした。
これが大きく扱われるようになったのは少年漫画ではありませんでした。
「死」はナイーブな問題なので長く取り扱うと意図しない「感動物語」に方向が行ってきがちです。
全く無かったわけではないですが、それは物語全体を締めくくるラストや、中盤から出てくる、物語を伸ばす手段のような印象です。
それは少年漫画が「努力・友情・勝利」のようなマッチョな場面を見せる要素だから、そういう湿っぽいものがあると邪魔だったという事もあるでしょう。
痛快な「努力・友情・勝利」の活劇を見せたい少年漫画の場合は取り扱ってもその感情が長引かないようにそこまで重くしなかったり、物語の後半にもっていくのが常套手段でした。
しかし青年漫画、女性漫画のような大人のための漫画の発展が大きくかかわっているでしょう。
漫画の長い歴史の中で大人が読むものになっていきましたから感動をどう見せるか、だらけない「死」の取り扱い方が研究されてきたおかげで、『鬼滅の刃』でもそれが取り入れられたんでしょう。
そういう漫画によって漫画で描く家族漫画の描き方の雛型が多く生まれました。
『鬼滅の刃』における「妹萌え」とは
私自身妹がいるのでこういう物は好きではありませんでした。
しかし見ることが出来たんですね。
これは構造上、たくさんの人に見せ続けることが出来るような作りになってるんです。
ポイントは
- 男女愛
- 兄妹愛
の二つの両立。
漫画ですから主人公に妹がいるという事で読者には見た目上、「男女愛」と「兄弟愛」の両方を確保できます。
単純な男女愛の場合、それの成就が一つの達成になってしまいます。
だから物語を続ける場合は「つかず離れずの状態」を維持し続けなければいけません。
『名探偵コナン』の新一と蘭みたいな感じですね。
だからストーリーと別に男女関係を両輪で流れさせますから、そこで深みは持たせることはできますが実状は両者がサイドストーリー的になって上手く交わりません。
それが兄妹愛の場合は成就する必要はないので男女のペアが同等に動かせることが可能になります。
兄弟を持っている人は多いですからそれに共感を得、例え兄弟がいなくても見た目上は男女のため男女の性愛のように感じさせることも出来ます。
しかも兄妹ですから必要以上に性的なシーンは見せずに済みます。
これが他人の男女の場合、どうしても読者のために軽く
「顔を赤らめる」
「キスシーン」
など性的なシーンをサービスしなければ物語として締まりが効きません。
純粋にバトル漫画なのにそういう物があると、バトル漫画の必要な緊張感がユルんでしまいます。
とはいえ、男女なのにそういう物が無いと、男女であることの緊張感を保つことが出来ない。
「本当に男女なの?」
と違和感を持つ読者も出てくる。
だから最低限のシーンとして顔の赤らみなど入れているというのが実情でしょう。
しかし『鬼滅の刃』の二人は兄妹ですからそれは見せないでもいいので、そのユルみを見せなくても済む。
そうすることで共感を得る裾野がぐっと増えると同時に、個人の読者に複雑な感情を与えることが出来ます。
それまでの少年漫画では男女のキャラは
- 同級生
- 幼馴染み
のどちらかで他人同士がほとんど。
だからただの恋愛関係としか見られませんでした。
このように微妙な距離感を作るために兄妹関係はこの物語には重要な要素になっているんです。
「女性の活躍」という時代性
それまでのバトル漫画でのバトルシーンでは男性主人公か活躍し、女性側はそのサポートや応援に徹するものばかり。それは男女の性質上仕方がないものでしたし、社会もそういう考えが多かったので仕方ありません。
しかし『鬼滅の刃』でも妹の禰豆子(ねずこ)は比較的サポート役ではありますが、とはいえ人間ではなく鬼になっており、人間の女性以上の異常なパワーを持っています。
ですから主人公よりもシーンが少ないとはいえ、その「強さ」から存在感が保持されます。
「活躍している」という所を見せないと、どうしても読者側からすれば印象が薄くなり、一人の大きなキャラの印象が薄くなるとキャラクタ同士の関係が弱く見えてしまいます。
だから主人公と総合的なパワーは同等程度持っているという印象になっています。
これが普通の女性だったら、いくら漫画とは言え男性以上のパワーを持たせるのにはどうしても違和感があります。
特に格闘シーンが見どころですから、普通の女性役ではどうしてもサポート役に配置するしかやり方がありません。
しかし鬼だという事にすれば異常なパワーを持っていても全然違和感がありません。
大正時代という背景
漫画の要素として大きなものは「見た目」です。
「絵が嫌いだから読まない」
という読者は結構多いのです。
しかも『鬼滅の刃』は作者も漫画家としてまだ歴が浅い作品ですから、特に初期は絵がまだ未発達です。
ファンの間でも「初期は読み飛ばしていた」という人も多かったでしょう。
これはこの作品に限らないことです。
絵は描けば書くほどうまくなっていくので当然です。
それをカバーするには目を引く服装やシーンが必要。
その事を考慮していたかどうかは知りませんが大正時代というのは和洋折衷している時代で、完全に和装、洋装にカッチリ決まっている時代ではありませんでした。
だから読者からしたら馴染みのある服装でありながら、和装的な雰囲気もあるので非現実な感覚も得られてオシャレ感が漂うようになります。
これが完全に和装の時代、現代風の時代では雰囲気が全然違ってきますよね。
コスプレしても面白そうだというのも裾野が拡大する要因になりますし。
だからヒットのために「見た目」に力を入れるというのは大切なんです。
たとえば『キングダム』(2010~)も、初めはヒットしなかったと言いますが、早めに井上雄彦(スラムダンク・バガボンドの作者)のアドバイスで「主人公の瞳を大きくした」ことで読者が増えたという話が有ります。
⇓1巻はまだ目が小さかったころ
⇓57巻になると、瞳だけでなく色の塗り方など、かなり雰囲気が違います
『みどりのマキバオー』(94~98)は、ジャンプ連載当時はその絵のビジュアルから特に読み飛ばしをしていた人が多かったと聞きます。
以下のnoteでは、続きの有料版を用意しています。
⇓有料版の目次
・伏線の面白さ
・飽きさせない本質的な仕組み
・「善逸」の重要性
・敵役の悲哀
・「柱」の重要性
・たくさんの要素があって破綻していない理由