結論
結論から言うと動きません。
多くの場合、正論を発するのは攻撃的な場合です。
なぜなら正論を言う必要があるのは相手の否定であることが多いから。
否定や攻撃をされたらそれに納得するでしょうか。
物理的な攻撃であれば、身体的な危険があるので「服従」はする可能性がありますが、心理的な攻撃で服従することは難しいですよね。
「正論」の本質
正論とは多くの場合攻撃です。
心理的な攻撃とは「バカ」とか「デブ」とかいう悪口と同じ。
確かにそれが正しくても納得して動くでしょうか。
動きませんよね。
だから攻撃には防御がなされます。
正論に対する防御は
- だって
- 習慣だから
- ○○が言うから
といったもの。
理由になってない!という気持ちは分かります。
でもそれは当たり前。
そもそも人間は何によって動くかというと感情です。
人間が理性を獲得した(?)のは感情より後で、感情の方が優先されるのは当たり前。
感情を押し殺して正論に動くとストレスがたまります。
非常に動物的な発想ですね。
しかし動物的なものがあるという事を忘れてはいけないし、否定はできません。
ストレスは健康、命に危険を及ぼしますからそれを回避するのは当たり前のこと。
しかしこういう感情、欲望を優先してはいけないというは「宗教」です。
正論の根源は
そう。理性重視の考えは宗教的なんです。
人間は動物的ですから、それでは社会が成り立ちません。
だからもっと大きな目で見ようというのが理性です。
他人に自分の気持ちを伝えるために心にあるものを言葉にする必要があります。
だから哲学が生まれ、それを更に細分化して科学が生まれました。
そうやって細かなものを積み重ねていくと他者が納得するような「正論」が生まれます。
そして他者と意思疎通を図ろうとしました。
相手を思いやる気持ちからですね。
- キリスト教では「隣人愛」(アガペー)
- 仏教では「慈悲」
- 儒教では「仁」
厳密に言えば少しずつ違いますが、どれも他者への心遣いです。
他の宗教でも同じでしょう。
動物に宗教心は有るかどうかは分かりませんが、少なくとも人間のような数万単位で集団的な世界観を持つことは難しいでしょう。
他者への気遣いで留まればいいですが、論理だけを見て他者を見ないと「正論」が生まれます。
論理だけなので他者の理解は不要だと考えるんですね。
論理は自分の頭の中に有るとそれが世界のすべてのような錯覚が生まれます。
しかしその論理は他者の心に中に有るとは限りません。
他者の心は論理だけではどうも読み難いんです。
感情は自分の世界のことで、宗教はもっと広い抽象的な世界観を見せます。
ですからそれが大きい世界観であるところからそれを正論だと思うんです。
ではなぜ人は宗教に惹かれるかというと、理由は「正論」ではありません。
「正論」は他者を見ていない
正論とは「大きな世界観で言うとこうだ!絶対だ!」という、神のような大きな存在と自分との世界観です。
しかし実際は神と個人の関係性は他者には関係ありません。
他者が動くのは個人と個人の関係。
つまり人と人との関係を重視していたら正論は出ないはずなんです。
正論を話す人は他人を見ず、自分の世界観(自分の神)を見ているんです。
そういう人の話を聴いて納得するでしょうか。
「自分の神」とはそれぞれの体験によるものです。
人によっては神の啓示だというだろうし、病気が治ると聞いて本当に治ったからだという体験があるからかもしれないし、幸せに生きているのは宗教のおかげだという人もいます。
- 安心
- 安全
- 幸福
どちらにせよ利益があるからです。
それも正論ではなく感情、体感的なものですよね。
だからと言って宗教家になれ、宗教に目覚めよって話じゃないですよ。
僕は特定の宗教に属していません。
しかしバカにできないので思ったことを書きました。
つまり人を動かすには
「こっちのほうが正しいのに!」
「正義はこちらのほう!」
と怒ってもしょうがないという事です。
ではどうやって動くかといえば、相手のことをちゃんと考えるという事。
正論を話すのは相手のことを考えていないんだと思っています。
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