嫌悪は嫉妬
「読書をしてます」
というと、「知的!」と思う人たちが一定数います。
だからこそ、見た目だけでない、中身のオシャレとして読書が使われます。
これを嫌悪する人たちがいます。
なぜ嫌うかというと、
「本当は大したもの読んでないだろ」
「漱石も読んでない癖に読書してるというな」
という、浅さから見える嫌悪感です。
なぜ浅さを嫌うかというと、「本当に読書をしているのは私なのに!」という嫉妬です。
オシャレで読書をしている人はアピール力にも長けていることが多いので、「読書しててカッコいい!」と見られがちです。
一方、本当に「ちゃんと名作も読んでるし、難しい本も読んでいるはずの私」には注目が集まりません。
そういう評価に対する嫉妬です。
嫉妬は悪いことと考えがちですがそんなことはありません。
自然に持つ感覚です。
でも彼ら、ファッションとして読書をしている人たちの評価を落としても結局はハタから見たら「嫉妬でしょ」と思われるだけなので、イライラしていたら損です。
批判と同意、両方がある
YouTubeの動画を見ていると、読書をしていることがオシャレであるような印象を持つものが結構あります。
これに関しては批判があると思います。
でも批判すべきことではないと思います。
おしゃれを楽しみたい人はそのままそうしていればいいし、嫌悪をもつなら批判をする表現をすればいい。
こんなこと言ったら自分(KEC)の意見はないのかって話になるかもしれませんが、基本的にはオシャレ感覚はあまり好きではないほうです。とはいえ、「かっこいいでしょ」と思う気持ちも分からなくもない。
じゃあその気持ちを整理するために「論理」を組み立てることが一つの方法です。
「読書」が「おしゃれ」の理由
2つが考えられると思います
- 頭がよさそうだから
- 「外見だけ良い」ということへのアンチ
「頭が良い」ということは社会的に上位に位置する要素だと思います。
だから本を読むという事自体が「そこに位置する人間だ」というアピールになります。
そもそも「おしゃれ」「ファッション」というのは外見に対する言葉です。しかし嫉妬からか「見た目だけ良い」という批判になりがち。
だから世界の「ミスコン」の優勝者は必ずと言っていいほど知性やボランティア活動に関してのアピールも併せていますよね。
こういう映像とともに「外見だけでない中身の美しさ」というような言葉もセットになっています。
見た目に自信が無い、もしくは限界があると感じている人は読書をするのがいいでしょう。
こんなことを言うと読書が「道具」「手段」に思えて嫌悪感を持つ人が一定数います。僕もそうです。
「嫌悪感」を持つ理由
読書自体にオシャレ要素を感じていなくて、「手段」ではなく「目的」として見ている人は嫌悪感を持つ可能性があります。
何で嫌悪感を持つかというと好きなもの、大切なものを「手段」「道具」のようにしていると自分自身の認識が変わるからでしょう。
好きなものの領域を低くされたような感覚です。
純粋に好きなのにそれが「手段」のように使われるのが嫌ということでしょう。
でもそれはあくまで自分勝手なもので、僕自身もそんなに大切に思っていないものを「手段」として取り扱っていることがあります。
つまり人によって「手段」にも「目的」にもなりうる。でもそれを大っぴらに宣言したりしません。それは面倒な争いになりかねないからですね。
だから読書だけではなくあらゆる分野にそんな関係への認識はあるんだから怒らなくていいんです。