簡単に言えば、他の本が読めるようになる本です。
この本を読めるようになると、他の本も読めるようになる、意味が分かるようになる本。
そういうものは二種類あります。
- 解説本
- 原文
こういうものを読むと、読める本が増えます。
解説本とは
「解説本」とは、古典や哲学・宗教など普通の人がいきなり原文を読んでも意味が分からないもの、眠たくなるものをわかりやすく説明した本です。
「古典とか哲学とか興味ないよ」
と思う人もいるでしょう。
しかしそういうものはあらゆる本の基礎、人間の考え方の基礎なので、読んでいると読める本が増えるんです。
学校で古典をやる意味はそういう意味があります。
学校ではたくさんのことを勉強していますし、そう思いがちですが、大事なのはそれぞれの人が授業が無くても、テストが無くても本を読めるようになることです。
それには古典を読むことで、たくさんの本をその後の人生でも読めるようにするのが大きな目的です。
でも学校でやる古典は基礎的な読み方、単語、文学史位をらるのが精いっぱいで本格的な面白さにまで届けることは難しいんです。
やることがたくさんありすぎるからですね。
だから古典を勉強しなおそうと思うならそれ用の古典を気軽に勉強するための入門書を読む必要があります。
しかしこの解説にもレベルがあって、「~入門」と書かれているのに全然意味が分からないものっていうのがあります。
漫画から読もう
一番初めは漫画や図が載っているものから読みましょう。
そういうものよ読めば徐々に分かってきます。そして最終的には原文、本文を読む。
ですから初めにあげた二種類は二つありながら実際は一本の道になっています。
「なんだ、結局古典か」と思うかもしれませんが古典を読めば現代の文も読めるようになります。いわば重量の重いダンベルが持てるようになれば軽いものが読めるようになるのと同じ。
逆に効果が薄いものは現代の問題しか取り扱っていないものです。
今の問題ですからすっと入っていきます。しかし内容が具体的過ぎてその後の人生の問題に生かしにくいんですね。
古典は過去のことでありながら現代の問題にも活かせることがたくさんあります。ショウペンハウエルの『読書について』で
「読書は、しすぎると自分で考える能力が無くなるからよくない」
というようなこと書かれていますが、古典はそれでもって考える材料になるので彼の言っている批判にはあまり当たりません。
むしろ彼が言っているのは本よ読んで考えないことを批判しています。
逆のことを言っている古典は『荀子』です。
そこには
「私はかつて一日中頭の中で思索してみたものだが、それはわずかな時間学校で学んだことにすら及ばなかった。私はかつてつま先を立てて眺めてみたものだが、それは高い山に登って広く見回したことにすら及ばなかった」
【原文書き下し】
吾嘗て終日にして思うも、須臾(しゅゆ)の學ぶ所に如かざるなり。吾嘗て跂(つまさきだ)ちて望むも、高きに登るの博く見ゆるに如かざるなり
つまり自分一人で考えるよりも本を読んで勉強したほうが手っ取り早いという事。
原文とは
岩波文庫でもいいですが解説ばかりではなく本文にはどういう風に書かれているのかという事をしっかり知る必要があります。
解説は解説で良いんですけど、どうしてもそれを書いている人の主観が入ってしまうんです。
ですからいきなりは無理だけど、最終的には原文を読んだほうが良いという事。
例えば西洋哲学を知りたいならアリストテレス、プラトンから読むのが本筋です。
中国哲学なら論語を読まなければ他の本に書かれていることが分かりづらいです。
なぜなら古典とは一本の筋でつながっているからです。
名著を書く人は必ず古典を読んでいます。そして無意識にも意識的にも影響を受けています。
だから読み進めていくうちに「あ、この考え方ってあの人と似てる」という所が出てきます。
だから必ず本は古典を読むことをおススメします。
「考えない読み方」と「考える読み方」
要するに考えるにしても全く本を読まずに考えるのは愚策だということ。
どういう本を読めば良いかといえば考える材料になる本です。
考えないというのは、上のショウペンハウエルと荀子が逆のことを言っているから「わからない」と安易に思ってしまう事。
逆に、「考える」というのは。両方とも逆のことを言っているように見えるけど、「矛盾しないように読むにはどうしたらいいか」と考えることです。
実際矛盾しないでも考えることはできますよね。