古井由吉は、日本文学の最高峰
古井由吉作品は、「日本文学の最高峰」と言われていますが、慣れていないと読みづらいです。読めないのはバカだからとかそういう問題ではないので安心しましょう。誰でも読みづらいです。まずそれを知っていたらだいぶ気が楽になるはずです。
そのうちスラスラ読めるようになるかというと、それは既に古井さんの本を何度も読んだ後だと思います。それ位、一般的な本とは違います。
なぜなら抽象的、観念的だから、なかなかイメージが掴めません。
だから初めは引っかかりながら読みましょう。
古井さんの本に限らず純文学はその傾向が強いです。が、ほかの本のほうが読みやすいことの方が多いので、純文学を読むならもう少し読みやすい本から読んだほうが良いです。「どうしても古井さんの本じゃないと駄目だ」という理由であれば別ですが。
いきなり読んでスラスラ読めるなら別ですが、読めないことの方が多いです。それでも読みたい場合は文庫本や全集の後ろについている「解説」や、関連する本、解説をしてくれる本から読みましょう。外堀から埋める感じですね。
内容も、晩年の内容は老人の身体的な変化、病気に関することが多いので、少なくとも高校生くらいが読むものでは無いです。私も読み慣れてないときは諦めの繰り返しでした。変に無理に読むと具合が悪くなるかもしれません。
柄谷行人は「高校生に読まれた名作は不幸である」っていうことをどこかで書いていたので、初心者、高校生以下は別の本を読みましょう。難しいからというよりも年齢的に合わないです。
他の本をたくさん読んでいても独特の文体なので、今までの読書の経験値が活かせないことが多いです。むしろそこを楽しむのが正道の読み方。独特の文体だからこそ評価されているという一面があります。
文学を読む理由として日常とは別の世界に飛ぶ効果があります。その為に文学は何をするかというと「異化」ということ。
「異化」とは日常性を異常化させて、脱習慣化させる方法です。
これは大衆文学的な、エンタメのための文学では劇的な殺人事件があったり魔法があったり、異空間へ旅立ったりとわかりやすいものが一種の異化かもしれません。純文学では文章表現自体が「異化」しています。
難しい純文学の特徴
純文学の大きな目的として、日常を変えるために文学的に変な表現を敢えてするんですね。でもそういうことは普通はできない、それをするのが作家の腕の見せ所であります。
純文学の中でも簡単なものもあるんですが、古井さんの文学はかなり高度です。ですから純文学自体に読み慣れていない人は他のものを先に読んだほうが良いと思います。
とりあえず読みたいなら、どんなもんかを知るだけでもいいと思うので読むのもいいです。
が、読破するのは難しいと思って、そういう前提で読みましょう。はじめから読み込もうとすると心が折れかねません。
どうやってそういう独特の文体を作っているかというと古典を読むことです。
芸術全般そうですが、歴史に残る文学は古典の流れを汲んでいます。だから古典を読むとそういう歴史に残る現代文学も読めるようになるんです。
流行りの言葉でいうと「コスパがいい」ってやつですね。
古井さんの話を聞いていると、ご専門のドイツ文学だけでなく、ちゃんと古典日本文学も読んでいます。
だからしっかり理解するためにはそれらを読む必要があるのですが、そこまで手を出すのは専門家レベルの訓練が必要なので、普通の人は解説をたくさん読んでから読めば最低限の楽しみを得ることが出来るはずです。
変な表現をするだけなら簡単そうですけど、文章が未熟な人、たとえば小学生とかの卒業文集なんかを読めばわかりますがみんな同じようなことしか書けません。
しかし高校大学生くらいになれば徐々に変わった表現をすることが出来る人が出てきますよね、その最高峰が古井由吉のような純文学作家だという事です。
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古井由吉が影響を受けた小説
オーストリア(ドイツ語圏)のムージルとブロッホっていう人の影響が強いと言われています。そもそも古井さん本人はドイツ文学研究者で、二人の小説の翻訳もしていますからかなり読み込んでいます。
この二人の小説は外側からの影響ではなく、とにかく内側の心理描写が強いんですね。で、古井さんご自身もそういうものに惹かれました。
なぜならその時代は政治的な活動的な小説が流行ったんですね。
で、古井さん当人はそれの反動で政治的な色ではなく、とにかく内側の追及することに魅力があったんでしょう。
古井文学の特徴
特徴をまとめると
- 五感を描く。
- 文に粘りを感じる。
- 「伝聞」を多用。
- 「句点」を多用。
- ストーリーを読もうとすると、意識スピードと文の速度がズレるので、読みにくくなる。
- 山、谷が舞台として多く出る
そして多くの人が思うのは中々ストーリーが進まない。
「こうなって、こうなりました」
というように分かりやすいものでは無く、時間は進まずその場で色々考えている感じです。
それが「内向の世代」という人たちで、その代表が古井さんです。
それまでの日本文学にはそういうものはほとんどありません。というか世界でも珍しいです。古井さん以降の小説でもそういうものは無くなりました。
その後の作家への影響は確かにあるとはいえ、内向的に小説を書き続けるのは作品を増やすうえでも、精神的にも限界があるんだろうと私は思っています。
「複合動詞」
が多い。
「複合動詞」とは「光り輝く」「投げ入れる」「書き上げる」のように二つの動詞を一つにまとめた動詞です。
これがあると二つの事柄が一瞬で表せますから短い文章でたくさんの情報、動きを表現することが出来ます。特に日本語ではこれが多いと言われています。ただでさえ多いのに、その中でも古井文学では多いので翻訳が難しいと言われています。
実際Amazonを調べてみると、評価のわりに翻訳が極端に少ないです。「日本文学の最高峰」を言われているのに世界的な賞をもらっていないのはこういう理由だとも言われていますね。
古井さん自体は「内向の世代」と言われていますが、関心が外に向いているわけではなく「内向き」の表現が多いです。それを嫌う人が多いのも事実ではありますが、では外向きが正しいかというとそうでもありません。
文学表現に正しいもくそも無いのが事実。多くの人は他者などの外側から何か外圧が来て、心の変化があって、それから外へまた行動が変わっていくというように、カメラが外から回しても問題ない流れになりますが、この小説はずっと内側、内省的な供述が多いんです。
既に内側に何かがあって、ちょっとした外圧で内側に何か変化があるんです。
古井さんは元々文学研究者す。で、ロベルト・ムージルというオーストリアの小説家の研究をしていましたが、その小説のキーポイントとなるのは「可能態」、つまり、内側に何か変化する可能性を秘めているタネのようなものがあるということ。
古井さん本人は「書けないはずのことが書けている」と表現しています。これを読んでも普通はポカンですが、「可能態」という事を考えるとそこまで変なことは言っていません。
一般的な小説というのは時間の経過が描かれます。しかし氏の作品は場面転換、時間経過が少なく、「意識の流れ」が描かれます。
古井さんの小説を読んでいると一瞬のはずの時間が、「渦」のようになって、その渦に呑み込められるのが詩的な快感に繋がる感じです。
ですから普通の小説だと思って読むと面食らうんですね。
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