フィクション小説は無駄?
嘘の物語を読むことは
- 無駄だ
- 意味が無い
- 虚無だ
と思う人が居ます。
多くの小説を読む人はそういう意味があって読んでいるわけではないのですが、何で読むのか分からない人向けに敢えて言うとすれば、
可能性を得るため。
これではわかりづらいので、例え話をします。
フィクションとは曖昧な世界
物理上、大昔にはこの世の中の最小単位は「原子」(アトム)と名付けられました。が、それはもうさらに分解されて現代では「素粒子」ということになっています。それは「波でもあり粒でもある」ということ。
そしてそれは「観察」という手を加えない方法でさえ影響を受けて状態が変化するということ。
小説を読むことによって我々は小説の世界を追体験するだけでなく自分自身の心を観察することになります。
今まで「あいまい」だったものが明確に言葉になるようなこともあるでしょう。
それは本を読むと
- 言葉を覚える
- 語彙力が上がる
という話の通りですが、一方で
- 今までこうだと思っていたものが崩れる
こともあるのです。
こうだと思っていたものが二つの曖昧なものになるということです。
逆作用のように思えるかもしれませんが曖昧さを受け入れることによって語彙力は伸びると、私は思っています。
決まっていないからこそ「可能性」があるということ。
数学で言う「虚数」(imaginary namber)に似ています。
フィクション小説はイマジナリーな世界
虚数とは高校数学で習う概念で、最先端の量子力学でも重要な概念です。
虚数は「二乗してマイナスになる数字」のこと。英語でイマジナリーナンバーといわれるように実感では実在はしないはずの虚空にある数字です。
数学的に言えば「虚数」は嘘ではなく、確実に実在する数字だそうで、結局それが無いと量子力学が説明できないとのこと。
私は専門外なので詳しくは書けませんが、量子力学とは「あいまいさ」の科学ということ。
量子力学で有名なのは「シュレディンガーの猫」で、「死んだ猫」と「生きた猫」二つの猫の可能性が同時に存在しているということ。
光もそうで、「粒子」の状態と「波」の状態が同時に存在しています。
初めて知る場合は受け入れがたいかもしれませんがそういう「重ね合わせ」の状態が量子力学では存在します。
というか物理で存在するならほかでも似たようなことがあって当たり前です。
フィクションとは「可能性」
アリストレテスは『自然学』で以下の二つの概念を挙げました。
- 「可能態」(デュナミス)
- 「現実態」(エネルゲイア)
「卵」や「種子」が可能態(デュナミス)として位置づけられるのに対して、
「鳥」や「樹木」といった成長を終えて成体となった段階における動物や植物の姿が現実態(エネルゲイア)とされます。
嘘、架空の状態は全くないものでは無く「可能性」であり、種や卵と同じ状態です。
それがそのまま死んでしまうことが多いのに対し、もしかすると現実化するかもしれないものでもあるということ。
そういう可能態を受け入れることで現実も多く受け入れることが出来るのではないでしょうか。
固定された、使い古された、決まりきった言葉ばかり使っているとどうしてもそこから外れることはできません。
一般的な言葉、普通の常識から外れた曖昧さを知って初めて言葉が運用できるようになると思います。
どちらが正しいのではなくどちらでもある、場合によって異なるような状態です。
「想像力が上がる」
という話もありますがそれとも関係している気がします。
小説は実際に身に起きたことではないにしても、心に何かしらの作用が起きます。
その時に心の中で何かが重なることもあれば、かえって曖昧になる。
「曖昧」というと悪い事のようですが、どちらも許容できるようになることもあるのです。そしてそれが物理的に言うと量子化(あえていうなら曖昧化)されたような状態に似ているように思えるんです。
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