自分は一人じゃない
「書いた自分」と「読んでる自分」は別物だからです。
書いている時間と読んでいる時間は別ですよね。
ですから調子が全然違うんです。
どういう時に違うかといえば、
- 体の状態
- 心の状態
この両者が違ってるんですね。
朝と夜の気持ちって違うじゃないですか。
それって意識しないと分からないことで、大体そういう事に気づくのって、文章を一人で書くような中学生の時だと思うんです。
自分は一人の決まった自分と思ったら大間違いで、あくまで記憶が繋がっているから同じだと思っているだけです。
こういうことはこの本に書かれてます。
例えばよく言われることで「夜中に書いた文章は朝読むと気持ち悪い」っていう話が有るじゃないですか。
それってテンション(気分)が違うからです。
しかし文章を書きなれてくると、不思議とそれにあまり嫌になくなってきます。
それは何故かといえば、別物だという事を分かって来るからですね。
「確かにこんな表現はあるな」って感じです。
つまり、そんな自分も許せるようになるんです。
書きなれていないと今の自分しか見られません。
それは当然のことで、過去を見る手段があまりないからですね。
あるとすれば写真や動画を見るくらいでしょう。
それを見ても、見た目や簡単な思い出は思い出すくらいでしょう。でも具体的に精神的なものを思い出しはしないですよね。
でも文章となると「そのまんま」炙り出されるわけですよ。
しかしたくさん書いては読み、書いては読み、を繰り返していると、過去の自分と現在の自分を何度も見ることになります。
そうすると時間の幅を見ることが出来るようになります。
「その幅を通して自分だ」というの認識が出来上がります。
じゃあ何で気持ち悪いと思うかというと、「思い」が違うからですね。
その時の「気分」が違うわけです。
それは何が違うかといえば、空腹のときは「いくらでも食べられる」と思っているのに対し、いざ満腹になると「もういらない」と思うのと同じです。
それは体の調子が違っているからです。
書き足りてない
つまり、「理想の自分」と「外から見た自分」が違うからです。
鏡を見たときは良い顔してるのに、写真に写る自分は気に入らない事がありますよね。
書くことって採掘作業だと思うんです。
どうせ文章を書いても面白くないだとか、気持ち悪い文章になると恐れる人がいます。
が、面白くないのは当然です。
なぜなら、まだ採掘距離が浅いから。
人は誰でも自分はまともでいい人間だと思いがちです。
そして、奥深い人間だと思っています。
が、実際に文章を書いたり話をしたりしてみると大したことは書けないし、喋れない。
見返してみると自分勝手な事ばかり書いているし、思い込みが多いし、ひがみ悪口ばかりで見てられないという事があるでしょう。
そんなことは誰だってあることです。
でもそれはあなたが薄いんじゃなくて掘り進める場所が薄いだけの話です。
掘り進める場所が浅くてグチャっとしてたり固すぎたりして全然面白くありません。
「こんなことしか書けない、これが自分なのか?」と思ったりするでしょう。
確かにそれも自分ですけど、その奥にもっと掘るべきところもあるんです。
それが現状として見えないから嫌になるだけです。
まだちょっとしか掘り進めてないんだから当然です。
自分のことは自分がよく知っているという言葉がありますし、実際分かっているような気はします。
が、実際は分かっていません。
言葉にするという事はそれぞれ自分の考えを割り出す作業なんです。
「割り出す」ということは細かく、部分部分を見るということです。
仮に自分の全体像を見られているとしても、それはあくまで全体であって部分ではありません。
よく全体像を見る、ざっくりと捉えることがいいことかのように言われることがありますが、いいことでも悪いことでも無くてそれはただ全体をボウッと見ているだけです。
人間は見えたというだけで満足してしまいがちですがそれは一見しているだけで、複数回掘り進めるように見つめないと駄目です。
私は本を複数回読むことを進めてますけど、自分自身も本のように読み進めるべきだと思います。
じゃあどうやって読めるかと言ったら自分で文章書けばいいじゃないですか。
そもそも言葉とは
言葉にするという事は自分の考えを部分化させる作業なんです。
だからいざ何かの弾みで「我ながらいいこと言ってるな」って思う瞬間があるんです。
それは自分の中にある良い部分を採掘できな瞬間でしょう。
だからこそブログを書くなら迷わずどんどん書くべきだと言っているんです。
はじめの内はつまらなくて当然です。面白いものなんか書けるわけないじゃないですか。
書いていくうちにいいものが見えてきて、いろんなものを書いていくうちに自分の中にある考え同士を重ねていいものがかけたりします。
それは大体100記事くらいでしょうか。
書けば書くほどネタが切れてしまうんじゃないかと凡人は思うんですけど、それは実際ありません。書けば書くほどネタになるものが見つかるので、寧ろ書くことは増えていきます。
書けることが多すぎて辛くなることはありますけど、書けないから辛いと思うのは書こうと義務化してるからですね。
義務でいい結果になることなんてあるんでしょうか。多分恐ろしく少ないはずです。
書こうとしなければ書けます。
それでも書けないのなら物事に対して感動が薄いんでしょう。
本を読んでいないだけです。
ものを書くとなったら身になった経験に基づいて書くことがいいです。が、いくら経験値を積んだところで言葉にしなければならないので最低限、漫画でもいいので本を読めば材料としての言葉が身につくでしょう。