1回だけでは足りないから
1回読んだらOKという本は、あくまでその時に楽しむだけのものでしょう。
もしくは話題に何となく乗れるようにというのもあるでしょう。
しかし、自分で話を振って話題を作る場合、それに関して詳しくないと何となく話は盛り上がりにくいですよね。
例えば国語の先生が授業で本を紹介する場合、何度も読まないと細かな情報を覚えていないと大変なことになります。
このように人にその話をするとき、人と共有するときは何度も読んでいたほうが良いんです。
私が大学院の時に担当の先生に言われたのは
「100回読め」
ということ。
元ネタは『三国志』。
「読書百遍、意、自ずから通ず」
(100回読めば、どんなに難しい本でも茶者の気持ちが分かる)
文学研究をする場合はそうでしょう。
あらゆる質問が飛んだ時にそれに答えられるくらいにならないと、専門家やプロとは名乗れません。
1回だけでは自分しか楽しめない
1回だけ読んでいるときは自分の中にある知識でしか読むことができません。
つまり自分の中の知識と本の中の知識との確認作業です。
これによってこの本がどういうことを言わんとしているのかが大体わかるようになってきます。
ここで読むのをやめてしまったら意味がありません。
本を読むのにどういう意味があるかといえば、新たな見識を手に入れなければ意味がありません。
もっと言えば新しい言葉が話せるようにならないと意味があるとは思えません。
2回目からは初めて、新しい知識の習得作業に移るんです。
しかし人間の無意識というのは新たな情報に対して抵抗感を覚えるようにできています。
恒常性(ホメオスタシス)機能によってですね。
つまり新たな情報を得ることによって今までの自分と別の自分に変わるわけです。
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深みが分かる
「1回読んだ本なのに読むたびに違うことが分かる」
という感覚は本を読んだ人ならだれでも味わう感覚でしょう。
頭のいい人なら何でも一回で分かると思いがちですが、そうではありません。
頭のいい人というのは沢山の情報がすでに入っているので一度に受け取れる情報量が多いだけです。
ですから普通の人もたくさん情報を仕入れれば、一度にたくさんのことを確認できるんです。
これはとっても喜ばしいことのように思えますが、生物としてはそういうことばかりではいけないんですね。
自己同一性を保たなければならないので本を読んだくらいで考え方が一変されてしまっては困ります。
しかしなぜ本を読むかといえば、自分の体だけが恒常性を保たれても、その環境もまた日々刻々と変わっているからです。
その変化する情勢に対して自分自身も変化しなければ、いくら恒常性を保とうにも保つ体自体がなくなってしまいます。
ですから生物の体はその時その場に合った体をもった個体が適者生存してるんですね。
それは体だけではなく精神面も同じ事です。これからの時代もまたどんどん変わっていきます。
技術は3年ごとに変わっていくという計算らしいので3年後の未来は見えません。
しかしできることといえば、常に新たな情報を取り込むということでしょう。
今日手に入れた情報が明日には変わっているということがあります。
しかし、言葉というのは常に変わらない言葉であるロゴス(秩序)とその場その場の状況によって変わる言葉であるレーマ(未知の部分)があります。
レーマというのは人それぞれの解釈のことです。
誰でも同じことを考えているはずなのに解釈の違いによって全然行動が変わってくることがありますよね。
本を読むことでこの人はどういおう解釈に基づいて行動しているのかが分かってきます。
大学の勉強で初めにその学問の歴史を勉強するのは全体のロゴスを確認し、学者別のレーマを知る素養を作っているんですね。
本を読むことによって情報の確認作業を強いものにしていきましょう。
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