本は「他者」
本を読むのは本が「他者」だから。
人は常に他者を求めています。
つまり寂しいってことに関係しているかもしれません。
それは言葉を求めているという事。
なぜなら今私が使っている言葉は親から始まり友達や先生や、周囲の無限の人間の人から影響された言葉であって、自分から作り上げたものではないんです。
自分ではない誰かが作った言葉を使って、物事や人を理解しようとしてるし、自分を表現しようとしています。
自分で書いてる作文などのブログは何かというと、それらを分解して、自分に合わせたものですね。
切り張りしている感じです。
そうやって言葉を組み合わせることによって、「自分の言葉らしいもの」が出来上がります。
つまり自分をそれで見ることも出来るんですね。
鏡を見るようなものです。
それは自分でもありますが自分という他者でもあります。
人間は「社会的な生き物」ですから常に他人のことが気になるんだと思います。
そうして考えることが、快楽に繋がっていきます。
人間は考えるのが嫌い
特に僕は純文学をよく読んでいます。
ドラマや映画になりやすいものではなくて、読んでいて面白いと思う人が少ないものですね。
最たるものは詩や俳句です。
有名な所では純文学が決まる芥川賞作品は、その詩や俳句の延長で、純文学の小説ですね。
「純文学読んで何の意味があるの?」
と思う人は多いでしょう。
端的に言えば、
「答えがないから」
大衆小説は読んだら「あー楽しかった」で終わって、余韻が無いんですよね。
純文学はずっと考えられるからいいんです。
とはいえ、人間は考えるのが嫌いです。
なぜならエネルギーを使うから。
よく、
「考えるのが好き」
という人がいますが、それは考えざるを得ない状況で、その状況を楽しめているだけです。
エネルギは基本って気には使いたくないものですが、それを使うこともまた楽しくなってきたりすることもあるので「楽しい」とも思えるんだと思います。
人によっては答えが一つしかない、分かりやすいものを好み、答えがないものを嫌う人がいます。
けど、それって要するに
「答えを提供してもらう立場」
ってことですよ。
もちろんそういう人が大半でしょう。
私も場合によってはそうです。
プロに考えておいてもらう感覚
人生の問題を全て考えるわけにはいきません。
だから、それを手伝ってもらうために本を読みます。
ネット上の知らない人の情報をうのみにするよりも、プロが書いたであろうと信頼がおける出版された本を読むほうがずっと有意義。
でも読んでいるうちに、
「この考えをそのまま使おう」
から
「これとこれを合わせよう」
っていう風に変化していくんです。
なぜなら材料が増えていくから、そういう「考え方」の工作が勝手になされるんですね。
何でそんなことをするのかって、「工作」といえば遊び、つまり楽しいからです。
けど、もう一つ理由があるんじゃないかと思うのは、記憶を整理するためだと思います。
記憶の整理
本を読んだら知識が符いえるからかえって整理が出来ないんじゃないかと思いがちです。しかし整理が出来ないのは物質的な荷物での話。
知識の場合は、たくさんあったほうがその中のいくつかが、別のいくつかの知識をまとめるバンドのような役割をすることがあります。
頭のいい人は色んなことを知っているって印象があるじゃないですか。
何でかっていうといろんな話が出てくるからです。
何でいろんな話が出せるかというと、会話の流れの中で、整理されているものの中から関連ワードが反応して、そのバンドの中から話題を提供できるからです。
つまり整理されている。
物質的なものの場合、体を動かして整理しなければなりませんから、整理が面倒ですよね。
しかし知識のような物質じゃないものは、たくさん増えると勝手に整理されます。
なぜなら人は考えるのが嫌いだからですね。
あっちこっちに情報があるようだと、エネルギーを消費してしまいます。
だから情報をまとめてるんだと思います。
記憶は整理しないと、頭がパンクしてしまいます。
感覚としては一日中色んな本を読んでいると
「読みたくない!」
と思えるのに、次の日になって起きるとまた読みたくなっています。
それは寝ている間に整理がされているから。
それを「忘れた」っていう言い方をする人もいますけど、僕の場合は必要な時にパッと思い出せる感覚があるので、思い出せないことを苦に思いません。
思うとしたらテストがある時などですね。
そういうテストがあるから、読書が嫌いになるという事があるのかもしれません。
全部を全部納めておこうとすると容量を食いますから、圧縮しておく感覚です。
もしくは関数みたいに整理する感じ。
「関数」で例えると
「関数」みたいにっていうのは、例えば漱石の本で、
- 『吾輩は猫である』
- 『門』
- 『坊っちゃん』
を読んだ場合、全部を全部、内容把握していくのは大変なわけです。
何度も読んで、人に説明するようなことをしていたら出来るようになりますけど、普通はそんなことなんかしてられません。
でも説明するとなると、大体その作家の特徴みたいのが「なんとなーく」見えてきているはずです。
それを総合して「漱石とは」って言い換えができるようになりますよね。
それを式にすると、
漱石(『猫』+『門』+『坊』)
って感じにできると思うんです。
そうすると、この式を持っておけば今まで読んだ漱石の組み合わせを少しずつ思い出しながら語ることが出来るようになります。
っていうと、そういう人になるための目的があるから、読書をその「手段」として読むという方法が一番と思いがちです。
でもそんなこともありません。
「純文学って、私は頭が悪いからわからない」
という人いるけど、頭の良し悪しじゃないんです。
読む姿勢です。そして人のことをわかろうとする姿勢の問題です。
- 「どういうことだろう」
- 「何で名作って言われてるんだろう」
という姿勢の人が、純文学を楽しめるだけの話です。
Twitterには
「1円でも儲けたら『プロ』って名乗ってもいい」
って「自称プロ」が多いけど、本当のプロっていうのは、
「絶対に追いつけない」
って人に思われてからがプロでしょう。
はっきりいって、金銭を基準にする人は本当に人と向き合ったことが無いんでしょう。本当に人の努力を称賛したことが無いんでしょう。
お金は大切ですが虚構です。
本当に楽しいというのはそれ自体が目的になります。
そんな奴はネットなんかしてないで「人」と無駄とも思えるような時間を過ごしてみたらいいと思います。
例えば「芸術」は儲からないのが普通でしょ。
1円も1億も、儲けたらプロっていう基準はヌルい
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