日本語の特徴として「人称の変化」があります。
これってたぶん最大の特徴だと思うんですけど、日本語は人称に物凄くこだわるんですね。人称だけではなく、人の名前そのものにも。
私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私に取って自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ『先生』といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない
『こころ』
吾輩 は猫である。名前はまだ無い。『吾輩は猫である』
両方とも漱石の代表作ですけど両者とも名前を隠す、もしくは無いというように名称にこだわってるんですね。もしくはこだわるがゆえに面倒ということもあるでしょう。
漱石は日本文学の中で研究対象のトップになっている作家です。
図書館の日本文学研究書のコーナーで余程のことがない限り一番多い冊数があるのはどこも漱石でしょう。
坊っちゃんを面白くしている大きな要素は呼称なんですよね。もちろん全体的にどこを見ても面白いんですけど、素人が見ても玄人が見ても面白いというのがすごい。その中でも子供でも「面白い」と思えるのが坊っちゃんがつける渾名です。
坊ちゃんの松島の教師陣のあだ名「狸」「赤シャツ」「野だいこ」「山嵐」「うらなり」「マドンナ」はユーモラスで面白いですけどこういうキャラクタ配置って海外文学じゃなかなか見られないです。海外文学は一々キャラが独立していて関係によってキャラの変わり方がそこまで顕著でないのに対して、坊ちゃんは注目できるほどの変化ではないにしろ「赤シャツ」「野だいこ」「マドンナ」の関係や、他の学校内の教師同士の関係が微妙に変化があります。というか関係そのものの文学ですよね。
日本人からしてみたら「え?そんなの当り前じゃないの」って思うでしょう。
なんでかって言ったらそのまま日本文化に拠ってるんですけど、人間関係が粘っこい印象なんです。古文を読むときに主語が不明だという問題がありますね。
『源氏物語』なんか特にそうですよね。
源氏物語を最後まで読みとおしたい!その方法 - ノーミソ刺激ノート

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なんで主語を略すかといえば話し言葉で身分の差が出るからだれが話をしているかがわかるから書く必要ないわけです。しかし現代人にはその感覚がそこまでわからない。
一方海外文学は誰が何をしゃべってるかなんてことが日本文学歩をわからないってことは少ないんですよ。「誰がどうした」というのは駒を配置するように独立してなされているんです。
カフカ『変身』で、朝起きたらでっかい毒虫になってしまう主人公はザムザ。それはカフカ自身の名前を文字っているという話もあります。
カミュ『異邦人』で母の死に感情を示さない主人公ムルソー(Meursault)はフランスではありきたりな名前だけど、物語との関連性を考慮して解釈するとMort(死)+soleil(太陽) またはsalut(救済)で「太陽の死」または「死の救済」という意味だという研究があります。(一方で考えすぎだという話も)
異邦人では「太陽」も「死」も重要な単語ですよね。
ヨーロッパではキリスト教の影響で「神の下の平等」(西洋的な民主主義の根本)が基本概念にある一方、日本では人と人との繋がりで日本的な民主主義が成立してるわけです。文学に哲学は関係ないと思うかもしれませんが、文学の土台は無意識的な、宗教的な直覚が大いに関係しています。

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もちろんテーマによっては、例えば歴史小説であれば歴史の年表から外れてしまったら読者は興ざめなわけですよ。しかし歴史文学はその制約がある中の作者の構成と創造の中で楽しめる文学なわけです。
こういうのって面白いですよね。引き続き考えていきたいと思います。