純文学を読むには「土台工事」が必要
純文学の読書は基本的に気楽にできるものでは無いので相対的に読書人口が少なくなるのは当然です。
ほとんどの読書をしている人はエンタメ系、つまりドラマ化や映画化されやすくて、分かりやすいものも読んでいます。
純文学も馴れたら気楽ですが、初めは難しい、分からないとなるのは当然です。
そういう風に気楽に入れるように書かれてないですからね。
世の中にはそういう風に簡単に分かってしまうものではなく、考え続けられるものを読むのが好きな人もいるんですが、そういう人は少数派なんですね。
純文学の作者は言葉を通じて微細なニュアンスや深い感情、哲学的な考察を表現しようとしますが、これが読者にとっては難解に感じられることが多いです。
例えば、村上春樹や川端康成の作品は、緻密な描写と象徴的な表現が特徴です。
これらの作品を理解するためには、豊富な語彙力や読解力が求められます。
読者が日常生活で接することのないような表現やテーマに触れることで、読み進めるのが困難になることがあります。
「でも昔の人は読んでたんじゃないの」
と思うでしょう。確かに今よりは比率としては多かったと思います。
でも昔は本は貴重でしたから無理やり読んでいました。
「読書百遍、義、自ずから見(あらわ)る」(三国志)
「(難しい本でも)百回読めばその意味は勝手に分かって来るもの」
というくらいなので、100回読めば良いんですが、現代人は同じ本を読む人なんて少ないです。本は何度も読んで行くうちにわかってくるものなので、それが土台作りになります。
しかし今はたくさん本があるので、そんなことをしなくても簡単な本を読めば良いということになります。エンタメ系はエンタメ系で技術の結晶なので素晴らしいものですがしかしそれをたくさん読んでも、純文学は読めるようにはなりません。
なぜなら簡単な本はいわば積み木遊びのようなもので、苦しみもなく楽しく遊ぶもの。
純文学はちゃんとした建築ですから、積み木と考え方から何から何まで全然違うんですね。
しかし一回読めるようになれは積み木も簡単にできるようになるし、難しい文学にも挑戦しやすくなります。
土台の作り方
じゃあどうやって土台を作るかというと一番一般的な方法は、大学以上の教養訓練です。
え、じゃあ普通に学校行っていただけでは読めないの?
はっきり言ってそうです。
普通に中学高校の六年間英語をやっていても喋れないし、体育もアマチュアレベルにもなりませんよね。
学校の授業というのは最低限度の教育だということをです。
一般的な受験勉強では「正確な読み方」は身につきますが小説の楽しみ方深め方は学べません。
多くの純文学作品は、歴史的背景や文化的文脈を踏まえて描かれており、それらを理解することが作品の理解に繋がります。
例えば、三島由紀夫の作品を読む際には、戦後の日本社会や美学、思想についての知識があると理解が深まります。
しかし、こうした背景知識がないと、作品の真意を理解するのが難しく感じられることがあります。教育現場でも純文学に触れる機会が限られているため、多くの人が純文学を読む素地を持っていないことが多いです。
そういう社会的な要因があります。
もう一つは漫画版など簡単な解説から読むこと。
現代人は幾ら気合が入っている人でも難しい本を100回も読むことはできないと言っていいです。
なぜなら本がたくさんあるという事実があるから、簡単な本を先に読んだほうが速いんですね。
だったら簡単な純文学解説書、漫画版を読めば良いんです。
どうせ難しい本は何度も読むものなんですから、漫画版を1回読むくらいどうってことは無いですよね。
特に名作古典と言われるようなものは解説本も漫画版も充実してますからそういうものを一通り読むと読み方の土台工事はある程度できます。
そうすれば知らないうちに純文学が読めるようになって、エンタメ文学を読むのは物足りなくなります。
もう一つは解説の動画を見ること。
今はそんなに多くないですけどそのうち増えると思います。
それを待つしかありません。
しかしなかなか出てこないと思います。なぜなら純文学を読むような人はインテリで、バカが嫌いな人が多いので、教え方が不親切だったり自己満足に完結してしまう人が多いです。
おすすめは文学部の先生が学生向けに遠隔授業としてやっている動画を見ることです。