多読をしなくてもいい理由
それは
むやみに広げても自分の軸ができない
ということ。
いわゆる「多読」とは「たくさんの種類の本を読むこと」だというのが大方の認識でしょう。
学校の勉強のように一度にたくさんの本を読んでしまうと本当に自分の興味のある分野をトガらせることはできません。
個人的な行為である読書を学校の勉強のようにやってしまうと何もつかみどころがなくなって、結局は長続きはしません。
学校は何もわからない子供の状態だからこそ、あらゆる基礎を詰め込める時に詰め込む方式なんです。ですから簡単に応用はできません。
それより遊びのように読書をするほうが長続きします。
別にトガらなくてもいいと思うならそれでもいいですが、ほとんどの人は無暗にいろんな本を読むにも読めないんですね。
なぜなら読書は主体的なものなので、興味が無ければザセツするものだから。
ザセツしたら元も子もありません。
つまり無暗に「多読!」と思ってしまうと、結局は「本自体を読めない」ということになりかねない。
というかほとんどの人が経験しているでしょう。
私もそうでした。
じゃあどうしたらいいかというと、自分の好きな本を読むこと。
ものすごく簡単な話ですが、実はそういう「好きなもの」は、なかなか見つかりません。
だから初めは簡単な漫画版から読んで、「これはおもしろい」と思えるものを、
- 何度も読む
- 解説本を読む
ということを繰り返せばいいんです。
【速読可能】まんがで読破を読むべし【多読へ近道】 - ノーミソ刺激ノート
こういうことは、多くの人がしません。
では、どういう時にするかというと「論文」を書く時ですね。
論文というと難しそうですが、実際は難しい訳ではありません。
好きな分野や本があって、慣れれば誰でもできます。
論文は「先行研究」と言って、すでに研究されているものを全部読みます。
そうすることで対象の分野のことなら何でも知ってるという状態にして、さらに自分の意見を加えることが基礎のやり方です。
しかしそれをやると、逆に多読ができるようになってきます。
多読をしないと多読ができるようになる
多読をするには、いろんな分野を知っていないと読むことはできません。
あえていろんな分野を一気に読めるようになりたいのであれば、漫画版をたくさん読めばいいでしょう。
今はいろんな分野の漫画版が出ていますから、それを読めばいい話です。しかし何にでも興味がある人は少ないでしょう。
大概は一つのことにむやみに興味があるということ、そしてどうしても興味が持てないってこともありますよね。
だったら
- 好きなもの
- 嫌いじゃ無いもの
を、集中的に読めばいいんです。
嫌いなものを読み始めても気分が乗りませんからね。
いわゆる「何でも知ってる人」は、多読の人が多いです。
なぜ何でも知ることができるかといえば、多くの場合、
一つ詳しいことがある
という場合がほとんど。
そこから枝別れしていろんなことに詳しくなるんです。
時分にはそんなものはないと思うでしょうが、誰でもなんとなく興味があるものはあるでしょう。ゲームでも異性でも何でもいいんですよ。
初めはみんなそうです。
でも興味のあるものを集中的に読む機会や、場所が無いからトガることができないんです。
だったら一度大きな図書館に行ってみてください。
図書館なら興味のある本があるはずです。
ただし、大きいところのほうがいいですよ。
詳しくは↓
人によっては「何でも興味がある」ということはありますが、それは例えば子供用の百科事典を読んでいたとか、色んな教養漫画を読んでいたとか、そういうタイプの人もいます。
でもそういう人は少数派。
日本語のあらゆる本を読みたいと思う場合は、一つのことに詳しくなったほうが速いです。
なぜなら本は知識で読むものだから。
「高度な知識とはどういうものか」ということをある程度経験しておかないと、いきなり色んな高度な知識に触れてしまうと慣れていないので拒否反応が起きます。
「え、そういえ世界があるの!?」
って感じ。
これは高度な知的世界に行ったら誰でも経験することです。
慣れないと多読できない
しかし一つの分野で高度な知識に触れておくと「大体こんな感じの刺激か」という感じに刺激に慣れるんですね。
人間は誰でも「世界はこんな感じ」と世界を知った気でいます。
しかし全然知ってないんですよ。だから知らない世界を知ると驚く。
そういう刺激は連続で食らうと疲れます。
だからいきなり多読はしないほうが良いんです。
私は趣味でボクシングをやっていましたが、初めのうちは打たれるのが怖いし打たれたら過度に「痛い」と感じます。
しかし練習を続けたり、あえて弱いパンチから強いパンチへ打たれる練習もします。
そうすることで
「これくらい殴られても大丈夫」
という「刺激」に慣れてくるんですね。
それと同じことが読書でも起きます。
ですから初めに自分の得意分野の情報をたくさん仕入れて、刺激に慣れましょう。
一番いいのは大学、大学院まで行くこと。
なぜなら「研究とは何か」ということを専門家が教えてくれるからですね。
何も難関大学を受験しなくてもいいんです。
放送大学なら大学院まであって、ちゃんとした学位を持っている先生がいますから、自分の研究ができます。
大学院の場合は研究計画と、それに合った先生が要るかどうかが問題になってきますが、それは実際調べてみてください、
そこで卒論論文を書くときにはどうしても一つの分野に詳しくならなくてはいけません。
しかし一つの分野に詳しくなるとそれに付随する細かい別分野の知識も手に入ります。
そうしてある程度知的な「幹」を太く、長くしておくことで、他の分野を読んだ時も「あ、卒論でやった範囲だ」という感じで、読書の「根拠地」のようなものが出来上がります。
そういう幹を作っておいてから多読へとシフトチェンジすると、たくさんのものが読めるようになります。
定年近くのオッサンでも「俺の卒論のテーマは~だった」という話をする人が結構います。
それは集中的に研究した経験が人生でそこがピークだったからでしょう。
つまりその時の知識が、仕事などの人生で考える時の「根拠地」として何十年も活躍しているという事。
しかし「多読をしたいけどできない人の多くは、読んでも面白くない」ということが殆どでしょう。
なぜ面白くないかといえば言葉が分からないから。
一つのことに詳しくなるとそれが木の「幹」のようになっていきます。
その一つの幹を太く、長くするにはいろんな分野の知識が枝葉のように必要になってきます。
その枝葉があって更に幹が太くなります。
その時に既に持っている「幹」の知識があるから、知らない分野でも知ってる知識を手掛かりにして読み進めることができるんです。
多読をするには
1つのことに詳しくなること
これが一番の近道です。
逆行すると思うでしょう。
そうじゃないんです。
世の中には多読というものが流行っていますよね。
だからこそ「たくさん読みゃいいんだ」と簡単に考えがち。
世の中に出版されているものも、あたかも簡単そうに書いています。
それはそうで、簡単だと思わせないと始めないからですね。
例えば英語であればたくさんインプットしなくてはいけませんから多読は必要でしょう。とはいえ、色んな知識を持っていないと外国語でもなかなか読み進めることはできません。
読める分野のものでも、あまりに簡単過ぎる内容だったら長期的に読む気が失せてしまいがちです。そして続かないと多く読むことはできません。
つまり多読の際の障壁は、
- 簡単過ぎると続けられない
- 興味のある分野が狭いと続けられない
ということ。
つまり英語を多読するにも、日本語を多読するにも、簡単過ぎたり興味のある分野が狭いと長続きしません。
では長続きさせるには、その逆をすればいい。
つまり、
- 難しい文を読めるようになる
- 興味を持てる範囲を増やす
「って、そんなの簡単なことじゃないでしょ」
と思うでしょう。
そうです。
ただ単純に「多読」するっていうのは簡単じゃないんです。
では何をすればいいかというと、1つのことに詳しくなるということ。
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