2種類
大前提として読んでてもいいんですが、「あえて言うと」という話です。
基本的に何を読んでいたっていいんですけど、
- 自己啓発本
- ビジネス書
などの「行動しなきゃ意味が無い本」です。
行動して結果が出てればいいですけど、100冊読んでも行動してなければ意味がありませんよね。
言わば家電の説明書だけ読んで本体を使っていないのと同じこと。
だから読んで、「そうか!」と新たな視点を見つけることはできます。
繰り返しますが読んでてもいいんですけどね。
なんでバカにされるかというと、バカでも読めるように、読み切れるようになっているから。
バカにされないものは?
逆にバカにされない本は学問的なものや、学問の対象になるような小説。
普通の人には読めないような、「基礎」を育てるものです。
ノーベル賞など、受賞されるものは「基礎研究」が対象になることが多いっていうじゃないですか。なぜなら基礎ですから、すぐに商品化されるわけでもありません。しかしそれは純粋な好奇心や本人の魂が宿っているんです。
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つまり本気で「知りたい」という欲望が出てくる。それは哲学的であり芸術的なものです。ですからすぐに商品になりません。
でもそういう物が無いと応用、つまり商品化、実用化されないんです。
そういう物を読めている人は本当の価値観に気づけます。
即物的、金銭的なものでは無いんです。
専門的な経営学や経済学の本ならバカにされませんが、ビジネス書というのはいわばそれを物凄く軽くしたものです。
素人でも書けるもので、売ることが目的です。
売ることが目的という事は、多くの人に読まれるように作るという事。
本は多くの人に読まれませんから、普段読まない人に買わせる必要があります。
だから簡単にします。
知的レベルが低い
バカにされるようなものを読んでも、別にいいだろって思うでしょう。
良いんですけど、ビジネス書は読んでそれで満足してしまいがちなんです。
他の思想書や小説は事前知識が必要だったりします。
だから読んでいるうちに自分が本を読んでいないんだ、もっと読まなきゃと思う物なんです。しかしビジネス書は書いてる本人も多くの教養があるわけではないので、次の教養へと結びつきづらい。
「だったら漫画も同じだろ」
って思うでしょう。
物に依りますが、教養を高めるための「まんがで読破」や「講談社まんが学術文庫」のシリーズなどは、教養の導入に良いと思います。
こういう物はたくさん読めばそのうち専門書も読めるようになります。
読んで用語に慣れていけば、大学教授が書いた解説本も読めるようになります。
つまりどんどん本当に読むべきものへたどり着ける。
しかし最近書店で平積みされていたりするビジネス書を100冊読んだところで教養が積めるとはとても思えません。
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ビジネス書・自己啓発本をたくさん読んでも無意味な理由 - ノーミソ刺激ノート
小説や新書なら基本的にOK
一方、小説や新書、思想書なんかは読むこと自体が目的ですから読んだ時点で目標達成になります。
ビジネス書は私もたまに読みますけど、隠れて読むか、立ち読みで済ませます。
というのも恥ずかしいですからね。
買って本棚に置くにしても場所も取るし何度も読むようなものじゃないと思ってます。
場所に余裕があるならいいですけど、本棚はもう一杯です。
読んだところで個性的になれるわけでもないですし。
特に最近はビジネス系で発信している人はみんな同じようなことを言っています。
これからもっと増えそうな気がします。
あまりビジネス書を読んでいない私でも、有名どころのものを読むと「これが元ネタだな」とすぐに分かるくらい同じことを言うんです。
題名も「~の教科書」「~2.0」「~である」
というものばかり。
売れるからその題名にするんでしょう。
人は読んでいる言葉に影響される
なぜなら人間は言葉に影響されるので、読んでいる本の言葉がそのまま自分の言葉になることが多いんですね。
読んでいる数が少なければ、それだけ読んでいる本にモロ影響が出ます。
子供が親の口調を真似するのと一緒ですね。
ですから教養のある人は教養のあることを自然と言いますし、教養をひけらかそうともしません。
中学生くらいからは難しい言葉を覚えるようになるので、そういう言葉を使いたくなるじゃないですか。そもそもの教養が無いうちはそういう言葉を使いたくなるものですが量を増やしていくとシンプルな言葉を使っていながら教養がにじみ出るようになるんですよね。
でもあまりに簡単な言葉で話されているとバカにされているような気分にもなります。
大学教授なんかは授業やゼミではわかりやすい言葉を話すけど、学会発表の時は全然分からない話をされててびっくりした覚えがあります。
それくらい学生にわかりやすいレベルに会話レベルを落として話してたんだってショックを覚えた記憶があります。
小説は同じ作品を読んでも感想が違いますし、それが複数になればなるほど本人の言葉の感覚や使い方が変わりますから個性的な言葉遣いになります。
中高生の内は難しい言葉を使いたがりますが、それってなんだか教養をひけらかすようなイヤらしい感じがするじゃないですか。
私もそういう経験がありますけど。
いわゆる中二病ってやつです。
暴走族が漢字をでたらめに使いたがるのもそういう事です。
でも大人になればたくさん読んでいる人ほど、そういうカドは取れて、味のある言葉を使っています。
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【選び方】どういう本を読んだらいいか - ノーミソ刺激ノート
ビジネス書を読んでいる人で言葉自体に力がある人って私の感覚ではないんですよね。それはあくまで言葉に味があるのではなくて商売することが目的だから当然です。商売することに特化していきたいのであればいいですが、ほとんどの人は読んだだけで終わります。
ビジネス書なんかは「正解」のようなものがあるので結局は結論が同じになります。
そんなことないだろって思うかもしれませんが、潜在的にこの二種類は「読書してる」と言われて胸を張っている人はバカにされる傾向があります。
少なくとも私は読書をしてるとネットで言っていて、この二つを紹介していたらガッカリします。
ただ、簡単なものだから馬鹿にされるわけでもありません。
例えば漫画や絵本を紹介していてもガッカリはしませんよね。
そこには何か文化的なものを感じるから。
バカにされる理由は・・・
ビジネス書に文化は感じませんよね。
それは時代を通して読まれるものでは無いから。
古典的に、その時代性を研究するために未来になって読まれることはあるかもしれませんが、それは少し読まれ方に違いが出すぎてしまうでしょう。
昔は漫画ばかり読んでいるとバカにされていたそうですが今はそれほどでもないですよね。
「絵本を100冊読んだ」となると、何だか独自の世界観を持っていそうだと思えます。
しかし自己啓発本を100冊読んだ人に対して興味が持てるかといえば個人差があるとはいえあまり尊敬されないでしょう。
なぜなら自己啓発本は元気のない人、やる気が起きないときに読むものだから。
例えば100年後にもそれが読まれているかと言ったらほとんどが読まれていないでしょう。
まんがや絵本は名作であれば100年後は古典的な名作になっていそうです。
一方まんがや絵本は普遍的に価値を持っています。
小説や新書などは読んだ瞬間に効果があります。
一冊読まなくてもたった一言で「あ、そういうことか」と思える瞬間があります。
そういう物って目的が無いので、人生全般に、自分で効果を感じるものです。
しかしビジネス書は「儲けること」が目的ですし、自己啓発書は元気をつけることが主な目的です。つまり行動できていない人が読む本。
小説(ラノベを除く)や思想書、新書などは読書に慣れていたり、事前の知識が必要だったりしますが、上記の二種類は事前知識無くても読めるものばかりです。
物によっては良いものもあるでしょうが、今はそういう物が少なくなってます。
なぜなら簡単に書けるからですね。
ネットで簡単に商売が出来るようになりましたから、結果を簡単に出す人が増えました。
それはそれでいいんですけど、文章を書くとなるとやはり苦労している人の文章はやっぱり違うんですよ。質が。
教養が試される本はバカにされない
くらべてみればわかりますけど、簡単に読めるものはやはり基礎教養がありません。
教養なんかいらない、ただ、飯が食えればいい、それで生きていく!
っていうのであればいいでしょう。
それは個人の生き方です。
でも読んでいて胸を張れる読み物はそういう物だとは思えません。
しかしビジネス書なんかは他者へ行動が無いと意味がありません。
小説や思想書の場合、他者に対して行動を起こさなくても読書の効果は出ます。
なぜなら、内部(自分)の世界観が書き換わるから。
「本を読むと頭がよくなる」
って思われてますけど、それは自分の世界観が変わるからです
ビジネス書、自己啓発本でも自分の内部は変わるって思うことも出来ますけど、目的は一方通行でしょう。つまり
- ビジネス書➔お金儲け
- 自己啓発本➔元気を出す
こういう風に目的が一方通行です。
しかし小説や思想書は目的不明です。
だからこそどうにでもなります。
ビジネス書系を読みたい気持ちは分かります。
私も読みますからね。読めば「目的達成」感があります。
読んだ途端、世界が違って見えます。
それは別に一冊丸々読み込まなくても良かったりしますよね。
たった一句で価値観の書き換えが起こったりします。
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それが小説なんです。
特にその傾向が強いのは「純文学」ですね。