母国語の日本語の他に、英語、中国語、フランス語を
程度は低いにしても勉強していていることを
すごいと言ってもらえることが多々ある。
んが!私は外国語を幾つか理解できることを然程大したことだとは思わない。
それは言葉は誰だって話せるから。
日本人なのに他の国の言葉を理解できるということは
少数派に属するからすごいと幻想するに過ぎず、
英語、中国語、フランス語を話す人は世界中に幾らでもいる。
重要なのは何語を理解するか、話すかではなく、
何を理解し、何を話すことができるか。
この場合、私は言語を道具、技術として捉えている。
道具、技術は時間とお金をかければ
平均的な知能を持っていれば得られるものにすぎない。
しかし、
その人がその人の考え、哲学で構築するお話、或いは作品というものは、
その人の人生の中で絶えず繰り返す「選択」によって紡ぎだされた
唯一無二の現象でしょう。
幾ら沢山の外国語を流暢に話せていたとしても、
バカみたいなことを延々と話していたって
その人はいつまでたってもバカという評価しかされない。
勿論、外国語を勉強する際には多少の苦労が伴うので
全くちゃらんぽらんなことを話すことは、まずないだろう。
その苦労、つまり人生におけるレジスタンスによって
人は成長するのであり、哲学する。
今自分が勉強しているのは技術なのか、哲学なのか。
当然両方大切であるが、それを理解しているかしていないかで
迫られる選択に対処し安くなるのではないかと思う。