批判と悪口
批判する能力がないのに批判するのはよくないです。
批判する能力というのは「他人が納得する批判をすること」です。
納得できない批判はただの言いがかりや悪口です。
感情的な指摘を批判と捉えがちですがそれはただの攻撃です。
批判はもっと知的な行為なので知性がないとできません。
批判する対象(人の哲学や作品など)は、どこまで行っても虚構であって本体があるわけではありません。ですから絶対的なものではないんですね。
人の考えたもので絶対的なものはありませんから、批判できるところはどこでもあるんです。
でもできるかどうかは批判する人の知性によるものです。
人間は誰でも批判できる
ではなぜ、虚構をみんな信じているかと言えば納得できるからです。
その納得できるようなものを打ち壊す別の虚構をこしらえることだできなくちゃ批判はできないんですよ。
何でも面白い、小説を批判しないというのはよくタレントがテレビで言ってることですけど、テレビ用のコメントであって本心じゃないでしょう。
本当に何もわかっていないか、本心じゃないかのどちらかです。ただテレビの場合は影響力が強いから言えないだけですけど。
よく文芸誌の新人賞があった時に批評欄がってそこをよく読むんですが、それがすごく面白い。
これは週刊誌のほうじゃなくて文学メインです。
今月号の『文學界』の新人賞の選評がおもしろい - ノーミソ刺激ノート
なんで面白いかといえばちゃんと文学に向き合って何年も文芸にささげてきた人の批評というのは切実なんですね。例えば新人賞の選考委員って大体6.7人くらいだと思うんですけど、それぞれで評価は微妙に違うけど一定方向に落ち着いているんです。それは新人賞だからわかりやすいのかもしれません。
プロのレベルと素人のレベルは0と1の差くらい違うでしょうから。
たくさん本を読んでいたらどうしても気に入らない本があるし、作家の選評なんかみてもズタ襤褸に書いているなんてことはよくある。じゃあそれは程度の低い悪口かと言ったらそんなわけなくて、批判ですよね。
プロの作家並みに本を読んでいるなたともかく、高校生、大学生が「人を批判するのはよくない!」と思って書いてるとなるとまあ、餓鬼だからいいけど、大人が言うなよって思います。
それはただ単に読書経験がないから批判ができないし、何がいいか悪いかもわかっていないということです。
「芸術にいいも悪いもない」というのは聖人ぶれるいいフレーズです。評価がないのであれば芸術は放出する意味がありません。絶対に素晴らしいもの、そうでないものはあります。
純文学ともなると普段読めない人も多いですから、形になっていないものだというイメージがあるのかもしれません。
美術の芸術性の虚構
ピカソの絵を誰でも書けると思っちゃうのと一緒ですよね。
よく芸術は何でもマスターベーションだと言いますけど、そういう側面もありながら、誰からも評価されないのであれば作者は気持ちよくもなんともない筈ですよね。
芸術は確かに自分だけ書いていても気持ちのいいものですけどそれは自分で書いて「良い」と思えるときに最高の気持ちよさがあるわけですよ。
暫くはそれでもいいけど、どんどんやっていたら、ほかの人はどう思うんだろうという気持ちになるのは当然のことです。「自分の絵はいいと思ってるけど、それって本当だろうか」という「本当の芸術」という太鼓判(虚構)は欲しいわけです。
でもそれは何度も言いますが、絶対的なものではないです。が、多くの人がそれを信じることで価値になるんです。(お金も宗教も一緒)
これは『サピエンス全史』に書かれていることです。
でもこういうのってたくさんの本を読んだりしないとわからないことなんです。特に古典ですね。しかし古典は技術がないと読めないですけど、最近はわかりやすい解説本がたくさんあるので気力があれば読めるものです。
作家一人を批判できないくらいの大人っていうのは未成熟だと思います。