「感情」を言語化する
良いことにしても、悪いことにしても、「言葉にする」ことで、客観視できるようになります。
そうすると、
- 良いこと:思い出せる、他人に伝えられる。
- 悪いこと:客観視できる、他人の不幸を緩和できる。
この二つが同時にできるようになります。
「読書をすると健康になる」っていうのは、NHKの番組でも以前放送されていました。
要するにストレス解消になる。
「幸福」とは他人に評価されるものではなく、自分で感じるものです。
でも自分で感じるにはその感じてることを言語化しないと、自分自身に説得力を持たせることが出来ません。
だから「読書をする」事が一番だと思います。
なぜなら読書をすると今の状況、感情が言語化できるから。
人生には大なり小なり「悲しみ」はあるものです。
それに当たった時に、語彙力が無い人は、
- 悲しい
- 運が悪い
- 最悪
- むなしい
などなどと、単純な言葉しか思い浮かびません。
でも、読書経験がある人は、そんな悲惨な状況でも、「言語の選択」が追体験としてあるんですよね。
言語を選択したいとただ自分の中に渦巻く、感情しか残りません。
言語化すると鏡のように客観的に自分を見ることが出来るんです。
例えば西村賢太の小説は作者自身がモデルのクソみたいな主人公の私小説です。
それを恥ずかしげもなく書きまくってるんですね。
その書かれ方が面白い。
不幸なもの、倫理的にどうかと思うものってなんで読むんだろうって思ってました。
けど、自分の中に出てきてない「最低なもの」を見ることによってそれが勝手に出ることを防ぐことが出来てると思うんです。
そういう「効果」を気にして読書をしても純粋に楽しめないと思いますけど、単純に西村賢太の本は面白いです。
こういうのを「告白小説」っていうんでしょうけど、キリスト教でも「告白」ってよくあるんですよ。
自分のこれまでの罪を告白するってことが。
こういう宗教のことに関して細かく書ききれないんで割愛しますけど、ようするに告白をすることで、
「罪や悲しみを言語化する」
っていうのが楽になる方法と言われています。
「言語化」されていないものは「感情」です。
感情のままでは手に負えません。
熱いものを素手で持っている感じです。
「言語化」はそんな熱い感情を、耐熱の手袋で持つ感じです。
それは「悲しみ」のようなネガティブなものだけではなく、ポジティブな感情でも同じことです。
「気持ちいい」と感じていても、もう一方の自分が、自分でそれを「気持ちいい」と言語化できていないと、自分が本当に気持ちがいいのかという説得力を持たせることが出来ないんです。
これって不思議なことですけど、「自分」は一つじゃないんです。
例えば人は誰でも子供の頃は「大泣き」をしたことがあると思います。
しかし「大泣き」しているとき、それだけに専心しているかというと、そうじゃないんですよね。
「大泣きしている」自分を冷めた目で見ている自分がいるはずです。
- 「お母さんが助けてくれる」
- 「大声を出して気持ちいい」
- 「のどが痛くなってきた」
と、別のことを考えている自分ですね。
そういう時に人は考えます。
悲しみという「感情」にしっかり浸ることはできず、何かしら考えます。
西洋の哲学では、「驚き」が哲学の始まりだと言われています。
でも日本の哲学の始まりだとされる西田幾多郎は、哲学の始まりは「悲哀」(悲しみ)だと言いました。
彼は多くの家族を亡くした哲学者です。
「宗教」の「救済」
キリスト教も仏教も、救われない人に光を当てるものなので、
「今さえがんばれば」
という思想があります。
逆に「神に祈るのは時間の無駄」といったエピクロスという人もいます。
そういう思想をする人のことを「快楽主義者」(エピキュリアン)といいます。
エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。 エピクロス派の始祖である。
現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
でもそんな単純なことを言ったのではありません。そんな簡単なことでは歴史に名前が残るわけはありません。
彼は肉体的な幸福ではなく、精神的な幸福について語ったんです。
「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」
といったことで有名です。
『こころ』の、
「精神的に向上心がないやつは馬鹿だ」
を私は思い出しました。
漱石もそうですけど、物質的な幸福を求めないことによって、肉体の最後、死後をあまり気にしなくなるというのはあります。
エピクロスの哲学は、死後のことではなく、現在が重要だといった、大切な考え方です。
最近話題のこの本でもそのことが書かれています。
幸福追求に関しては時代によって変化があるので、自分はどんな幸福を追求していくのか、それは自分で勉強していくしかありません。
「人の言う事を聞いて生きる」
つまり、他人の考え方に乗っかるのは楽で簡単です。
しかしそうなると、その人にいいように扱われる危険性があります。
なぜなら人の考えたことに絶対は無いから。
自分で考える
「考え」というのは、その人がそれまでの体験や読書の経験を基に、有機的に繋がっているものです。
考えに乗っかる場合、全部を理解することは不可能だから、その一部に乗っかることになります。
「一部」の場合は、もう一人の他者に簡単に否定されるんですね。
自分で編み出した考えの場合、それを否定する方法を自分で作り上げることが出来ます。しかし、他者からの借り物では、
「どうすればいいの!?」
とオロオロするしかない場合がほとんどです。
なぜなら自分で考えたことがないのに自分で急に「考え」を見繕う事ができないから。
買ってきた服を着るのは安価で楽ですけど、自分のために合ったオーダーメイドの服のほうが着心地はいいし、一生ものです。
それと同じように、人生観も自分はどういう考えで生きていくかは、本を読んで勉強しないと作れないんです。
なぜならどうしても人一人の人生ではそれを作るだけの材料が足りないからです。
材料が足りない状態というのは不満がある状態です。
それを脱していくには本を読むしかありません。
買ったけど読んでない本(積読)が多くなるのはなぜか。 - ノーミソ刺激ノート