もちろん話せたほうが楽しい。
でもあくまでそれは「足は速いほうがいい」と同じくらいのことです。
多くの場合、日本人にとって英語は娯楽なんだと思います。
たとえば英語を字幕なしで見たいとか、英語ができたらかっこいいとか、楽しそうとか。私もそう思います。
ですから日本人は英語なんかしゃべれなくてもいいというのが基本的な考え方です。
ほかの英語を話せるアジアの国々というのは、英語が話せなければ仕事にならない、もしくは経済的に圧倒的に不利になるんですよ。
つまり話さなければ命に係わるんです。
日本はそんな状況じゃない、ただ「英語ができたら楽しいな」という程度です。
日本人は英語ができれば頭がいいとか思いがちですがそんなことはないし、むしろ子供のころから英語が喋れるような人は根本的な思考力を鍛える機会を損失してるとさえ思います。
母国語と外国語をどちらが大事かって言ったら母国語に決まってるじゃないですか。
なんでかって言ったら外国語が母国語を越えることはないからです。寧ろ越えてしまったらその人のネイティブは外国語になってしまって、思考力の基盤がずれてしまいます。
思考力はこれからの人間の基盤だと思うんですよ。肉体労働はどんどんロボットになるし、言われたことだけをきちんとこなす公務員の仕事も減ります。
じゃあ人間には何ができるかって「考えること」です。
それもロボットでできるんじゃないかと思いがちですけど、考えるには二種類あるんです。
- 事務的な翻訳
- 文学的な翻訳
この二種類です。
翻訳を例に
ただの事務的な機械翻訳は完璧に至るのは時間の問題でしょう。スマホでも簡単な翻訳であれば可能ですよね。
まあ、これはある種、思考力といえるかもしれません。しかしあくまで前例があっての思考力です。多くの役所的、官僚的な仕事はこれにあたります。官僚は個人ではなく団体として働く必要があるので個人的な意見ではなく、歴史的な前例が尊重されますし、そうでないといけません。
文学的な翻訳のというのは人の心に関する言葉なんです。
この場合、幾ら前例があっても「この言葉をなぜ訳者はこの言葉に言い換えたのか」という風に翻訳の種類があって、それぞれに語学的な哲学があるわけです。
それを訳者に訊ねることに拠って更に文学的な味わいを得ることができるわけです。
ですからこのような独創的な思考力というのは母国語の思想ありきなんですね。
人と違う発想に至るには(新発想を得る手引き) - ノーミソ刺激ノート
これをロボットができるのは時間がかかりそうです。
ですから単純な翻訳である場合は自動翻訳でもいいですけど、人間の言語は人間そのものなので単純では済まされないんです。
ただ、現代人は本を読まないので単純な思考で済んでいる人と、機械翻訳で済まない思考の人とで二極化されるんじゃないかとさえ思います。
もちろん英語ができる人は経済的に有利な環境だったり、もともと頭のいい家族だったりするので思考力のある人が多くいることもあります。
例えばインドやシンガポールは同じアジアなのに日本と比べて英語ができるという宣伝がなされることがあります。けど、その二か国ってもともとイギリスの植民地ですよ。英語が徹底的に教育なされた国で、イギリス資本がガンガン入っているわけです。
今は植民地じゃなくなったとしても、一度植民地になってしまったらその国の商品、経済は当然、考え方も根本的なものを受け入れることになります。
それがいいことが悪いことかは各自の判断に任せますけど、そういうことです。
むしろ多くのアジア各国が当然のように英語を話せるのに対して、日本人の多くが英語が話せない状態にありながら経済大国になっていることがすごいと思いませんか。
しかも現在の観光資源のほとんどが鎖国状態に築かれた文化ですよ。閉じられた世界だったからこそ価値があるんです。
それってものすごい希少性じゃないですか。
グローバルはローカルありきなんですよ。
ノーベル賞を取っている人でも英語がしゃべれない、まともに読めないという人もいます。益川敏英博士なんかもそうですね。
ノーベル賞を取るような人はもちろん圧倒的な知識量が大事です。益川博士もそうだということを発言されているし、大学院の先生もそういうことをおっしゃっていました。
ただ、その知識を以て何か「思う」というのは人間の専売特許なんですよね。
その「思う」というのは母国語の力が欠かせないんです。
日本語は読書に適してるって知ってた? - ノーミソ刺激ノート
出口さんというのはライフネット生命の創業者ですけど、大変な読書家で有名ですよね。