結論
- 「湯」とは「快楽」の象徴
- 「銭」とは「労働」の象徴
この「快楽」と「労働」に関しての例えが「湯」と「銭」ではないかという話です。
湯婆婆と銭婆が双子ということを考えると両者の特徴である「湯」と「銭」は対照して考えられる概念だということがわかります。
湯婆婆は油屋で客(神)に快楽を与える存在であり、自分自身も儲けることによって宝石や金貨を得る、快楽に満ちた世界です。
一方、銭婆は、やってきた人に労働を与え、生きる意味、労働の楽しみを与える存在です。銭婆の所で金銭が出てくる表現は見えませんが、「銭婆」という名前が「湯婆婆」と対応していることは明確でしょう。
さらに「カオナシ」を基準に考えるとより分かりやすいです。
彼は自己が無く移ろいやすい存在です。
そういう人の批判としても見られますが、二人の婆さんの要素が分かりやすいように配置されたキャラであるようにも見えます。
「カオナシ」の「カオ」とは何か
「顔」とはいえ本人自体を見てみると仮面をかぶっています。
そこで思うのは「仮面」のラテン語は「ペルソナ」(persona)。
ペルソナとは「個人」を意味する「パーソン」(person)と同じ語源です。
つまり、「個人」「個性」が「無い」のが「カオナシ」。
カオナシは神なのか、何なのかよくわからない存在でした。周囲の対応自体で流される存在です。
だから千尋に油屋に迎え入れられたから中に入れたし、他者(蛙や従業員)を飲み込んだからその他者(蛙や従業員)の言葉で話すことが出来たのです。
ということは、カオナシ(無個性の人)の価値観は他者によって簡単に変わる、主体性が無い人ということ。
簡単に価値観が変わる、主体的でない人といえば
- オルテガの『大衆の反逆』でいう「大衆」
- ハイデガーのいう「世人」(Das Man)
- 『論語』に出てくる「小人」(小人同而不和:小人は同して和せず)
のような人のこと。
厳密に言えばこの三者はちょっとずつ違うのですがおおよその方向性は近いし、カオナシはすべて当てはまりうる存在だと思います。
これはそういう個人ではなく誰の中にでもある要素です。
神なのか、それ以外の存在なのか分からないのは、恐らく本当にそういう間(あいだ)の半端な存在なんだと思います。
彼は「湯婆婆」の所へ行くと途端に快楽に走りました。
それは、女性、お金、食欲。
価値観が簡単に変わりやすい(無個性の)人は、「主体性」が無いので加減を知らず、極端に変わるということなのでしょう。
他の人が快楽の場所である油屋に行っても、楽しんではいますがカオナシほどの暴れっぷりはしません。
しかし、銭婆の所へ行く途中で、その欲望の元となった他者(蛙や従業員)を吐き出し、千尋が銭婆の家から帰る時には「あなたはここに残りな」と言われ相変わらず抵抗せず、そのまま銭婆の所へ残ることとなります。
そこでやっているのは労働です。
カオナシ自体は黙々と仕事をしているので、嫌がっているのか、楽しんでいるのかよく分かりません。が、一緒に仕事をしているネズミと鳥は楽しんでやっているように見えていますね。
労働にもいろいろありますがこれはそんなにきつい労働ではないように見えます。
それは感情を見せられないカオナシが労働をどう感じているのか分かるように別角度としてネズミと鳥を見せているんだと思います。
または油屋で暴れていた時のカオナシと結局は本質は変わってないとも言えます。
銭婆に言われたまま労働をこなしているだけ。
そもそもカオナシは主体性が無いので本人は楽しいのかどうかという考えが無いとも考えられます。そういう人は出来る範囲の労働をしていれば迷惑はかけませんからそうしていろということなのかも。
宮崎駿の思想
宮崎自体は共産主義で有名です。
簡単な一筋縄ではない共産主義者ですが、それを軸に考えると見えてくるものが「反資本主義」であり「労働賛美」だということ。
快楽はどこまで行っても加減が分からず、利益ばかり追い求めて本当の喜びにはなりません。
しかし労働はそれ自体が楽しければ、労働自体が目的(快楽)になるのです。
とはいえ、利益を求めることもやはり否定はできません。
宮崎自体も映画の興行収入に失敗した経験(カリオストロの城やナウシカ)があるのです。
お金が無ければ映画が作れない、自分の下で働くアニメーターを食わせられない、ということはしっかり知っています。だからこそ観客が何人か、ということが気になるのです。
湯婆婆と銭婆が双子であるということはその二人が司る「快楽」と「労働」は二つで一つでもあり、かつ否定し合う関係であるというということが読めます。
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