ノーミソ刺激ノート

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間違った日本語に関して

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あいまいな日本語

「間違った日本語」

という言葉があります。

しかし言語は曖昧なものなんです。

 

ですから「これが正しい」というものは有るようで無いようで・・・というようなボンヤリしたもの。

具体的に言えば「方言」や「業界用語」などは、一般的な「日本語」ではありませんが通じますよね。

 

もっと言えば家族同士、友人同士であれば「あれ」といえば特定の何かが通じてしまうという事もあります。

 

このように範囲によって言語は変わります

ですから「間違っている」と判断することは難しいんです。

 

一定の範囲内でしか通じないものも、日本語の派生であれば日本人同士での範囲で使っていればそのうち理解できるでしょう。

では「間違っている」とはどういうものでしょうか。

「間違った日本語」とは

それは「人に対して間違えている」ということ。

「間違った」というと「文法」や「漢字の使い方」が間違っていると思うかもしれません。

 

しかし「日本語はこうです」というような決定機関、権力があるわけではありません

日本語を作っているのはその時その時の日本人です。

ですからその時代で通じていれば間違っているとは言われません。

 

そういうとあまりにも曖昧な感じがするでしょう。

言語は曖昧なものです。

とはいえ法則はあります。

 

それが大学などの日本語研究で明かされたものを元に学校などの教育機関で教わるものです。

研究の元になっているものは普通の日本人が使っている日本語です。

 

例えば広辞苑などの辞書は時代によって少しずつ変わってきています。

何によって変化するかといえばその時代の日本人が使っている言葉によって。

ですから言葉とは非常に民主的なものです。

言葉の教育の仕組み

研究機関では「日本語とはどういうものなんだろう?」と普通の人の言葉の使い方を採集してそれを科学的に研究して、それを元にまた多くの国民にそれを教えることになります。

 

でも教わる子供は曖昧なものを教えてしまうと混乱してしまいますよね。

 

だから曖昧でないように見せて学習させます

学校ではテストをして基準を作らないといけませんから、そういう都合上、言語としては不自然でありながら、基準を建てているんです。

 

本来であれば言葉の法則は机の上で勉強しなくても身につくものです。

でもあまりに曖昧だったり、法則が無いと多くの日本人とコミュニケーションが取れません。

 

だから学校で最低限の決まりであるものを「国語」として教えています。

言葉は「人」と「時間」で違う

言葉というものは人間と一緒で

  • 個人
  • 時間

 

によって違います。
生き物のようなものなんです。

言葉は日々変化していくものであり、二人以上の人間のコミュニケーションツールであるので、伝わればそれは言語なんですね。


大規模な名称としての「日本語」
がありながら、
小規模の「日本語」もあるわけです。

つまりそれを最終的に狭めていくと、個人個人で固有の言語を持っているんです。
日本語で会話する場合、それぞれの言語(個人的な言語)の共通点で会話しているんです。


だから言葉で誤解が生じるんですね。

日本人みんなが同じように話してたら面白くないじゃないですか。

言葉はその人そのもの

感覚も考え方も、言葉を元にしています。

言葉の使い方が同じであればみんな同じ人ということと同じですよ。

鈴木さんには鈴木語があり
山田さんには山田語があって、
統合したものが「日本語」
なんです。


もっと細かく言えば、そういう個人語も日々変化しているので、
日本語もだんだん変化していくんです。

今日のあなたと明日のあなたがちょっと違うように、今日の日本語と明日の日本語もちょっと違うんです。

だからいちいち「学校で習った日本語と違う」とかいってカリカリする必要ないんですよ。

例えば「全然良い」という言葉が間違っているという話が有ります。
「日本語」では「全然」のあとは必ず「~ない」(否定)でないといけない
という決まりがあるという話。


だから否定をするときに
例えば

A「これおいしいね」
B「全然」

といえば「全然おいしくない」という意味に伝わってたんですけど、最近では「全然何?」(肯定なの?否定なの?)
と内容説明しなければ伝わらないこともあります。


「全然おいしい」という人も増えているからですね。
これが嫌だって人もいるでしょう?


でも戦前の人(例えば夏目漱石とか)も
「全然」+「肯定」

は使ってたんです。


でも戦後日本語の規定として「全然~ない」が正しいとされたんです。
だから嫌われるんです。
ね、時間によって違うんです。

私からしてみたらただの潔癖だと思うんですけど、私も正直好きではないんですが、
アレルギーみたいに嫌う人もいるので公の場では教養としていわゆる「正しい日本語」を使った方が困難は少ないですね。


なにしろ人によって言葉は違うんですから。
認識が違うんです。
「全然」+「肯定」が嫌いな人にそれを使うと言葉の真意が伝わらないですよね。


コミュニケーションが破綻してしまうんです。
はじめに書きましたけど、伝わらなければ「言語」ではありません。


嫌いな言葉遣いをしたとたん、それは使われた人からしてみれば

不愉快になる呪文 

でしかないんですよ。
言語は個人的だからこそ、その人、その場に合わせて使うのが正しいんですね。

 

国語で漢文を勉強する理由 - ノーミソ刺激ノート

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