語彙力が上がる
古典を読むと語彙力が上がります。
なぜかというと、言葉は古いものだから。
今使っている言葉というのは過去の遺産でしょう。
だから古いものであればあるほど言葉の数が増えるんです。
言葉が増えたら「楽しく」なります。
なぜなら「感覚」が増えるんですよね。
言葉を知らない場合でも何となくの感覚はあります。
でもそれは動物的な、原始的なものです。
言葉は例えば、スーパーのポップに
「春は揚げ物」
と書いてあったら、中学生以上であれば『枕草子』の
「春はあけぼの」
を思い出して「ちょっとおもしろい」って思えるでしょう。
語彙力っていうのはテストの点数を上げるためでも、仕事のための雑談力を上げるためでもなく、
遊び心のため
だと思います。
似たような文句を創作したことがある人もいるかもしれないですね。
この「遊ぶ」という感覚は、悪いもの、子供っぽいものと考えがちですがそうではありません。
「古典」と「遊び心」
中国の古典『荘子』には、「遊」の思想と呼ばれるものがあります。
例えば
「物に乗じて心を遊ばしめ、已むを得ざるに托して中を養う」
(説明)
一切万物の自然をふまえて、自己の心を無心の境地に遊ばせ、やむ得ざる自己と世界の必然に身をゆだねて、ひたすら己れの内なるものを養い育てていくこと、これが最上の処世であり、生き方なのです。(福永光司による)
「遊」というのは、損得勘定抜きに「無心の境地」で自然に身をゆだねることです。
これって、言葉、語彙力が無いといけない境地なんですよ。
何でかというと、人間の話すような言葉のない世界(野性の世界)では
「食うか食われるか」
の世界ですからね。
遊びなんて高等なことはできません。
余裕が無いと出来ないんですね。
「古典」が読めないのは動物化すること
近年、教育現場では古典や文学の教育が価値を認められず、受験にも古典を学ばなくて良かったり、もしくは高校の「国語科」では
- 実務的な「論理国語」
- 芸術を楽しむ「文学国語」
に分かれるという話もあります。
でも実務って極端ですけど
「やりたいことないから、とりあえず金を稼ぐ」
って話じゃないですか。
取り敢えず「稼ぐ」って、動物的なことですよ。
お金が必要っていうのは食べるのにも困るってことですからね。
もちろんお金は重要です。
でも現代日本において餓死する人が圧倒的に少ないのに、なぜそこまでして稼ぐ必要があるんでしょうか。
もちろん、仕事をして独り立ちすることは必要ですよ。
でも、それだけで人生を終始させるんですか。
これでは、「バカは稼いで食うだけで生活してろ」ってことのようにも思えます。
極端な話ではありますけど、食べる以外にも文化的に生活することが人間でしょう。
やりたいことがあるから定職につかないっていうのは、
- 役者
- 美術
- 音楽
などの、大概が「遊び」の部類ですよね。
つまり「文化」です。
文化を育てると、その国の半永久的な財産になるのにそれを育てずに目先の金を求める人は求めろっていう話です。
でもこれって危険ですよ。
現在の日本の文化は平和な時代の江戸時代にはなりらいたものばかりなのに。
これから実務的なことはロボット、AIがほとんどやってくれる世の中になるのに、それでも実務の力も求めても、無駄ですよ。
いざ、文化、遊びに集中したほうが良いと思っても、遊び慣れてないと遊べないですからね。
下手したら、悪名高い渋谷のハロウィンのように犯罪を犯しかねません。
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「古典」とは
古典(こてん)は、古い書物、形式。また、長く時代を超えて規範とすべきもの。
英語のclassic/classical、またはそれに相当する西洋語の単語の訳に使われる。これらの語は、分野によっては、古典派と訳されたり、(classicかclassicalかを問わず)クラシックと音訳されたりすることもある。
近代以降における日本(日本語)の「古典」という概念は古代中国に源流を持つ漢語の「古典」と古代ヨーロッパに源流を持つ「クラシック」という、由来も示している範囲も異なってはいるものの、類似した性格を持った二つの言葉・概念を融合させたものである。
古典とヒトクチに言っても、あいまいです。
けど、ここでは学校の古典から社会人が読むべきだと書店で喧伝されているものを指すことにします。
あまり読書経験がない人は難しいものは避けたほうがいいです。
が、かと言って、いつまでも大衆文学ばかり読んでいてはもったいない気がします。
文学というのは本当に広く深いものなんです。
頭が秩序立つ
世の中には本来、秩序なんかなくって、人々の営みの中で秩序は生まれました。
つまり世の中はごちゃごちゃの混沌だったんです。
人間が自分勝手で動き回ると、他の人間全員にとって都合が悪いですから交通整理として秩序、倫理が生まれました。
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
芥川龍之介『侏儒の言葉』
我々が生まれた時の秩序は絶対的なものではなくて時間とともに変化するものです。
そういうことを体感し、今後の未来のために活かせるんです。
古典的教養は実際にその言葉を話したり披露する機会は少ないです。
しかし日常話す言葉の根底に潜むものなんですね。
例えば話をするときにはリズムに乗るものです。そのリズムに合わせて話をするときに
「この言葉遣いってこれで合ってたっけ?」
「ここはどう表現すればいいんだろう?」
と、言い方に迷いが生じることがありますよね。
もしくは話を聞いていて言葉の数が少ない相手に対してその少ないヒントの中でその穴埋めを聞き手であるこちらが勘で埋めることができるようになるんです。
所謂「行間を読む」という事ですね。
何でこんなことができるかといえば、人は常に何かを考えていますよね、しかしそれは言葉にならない混沌の状態なんです。
それを秩序立たせるためには言葉が必要なんです。
言葉の量を日常、使わないとはいえ持っているというだけで相手の気持ちを予想することができるようになるんです。
人に話すをするときにはその人に寄り添った話、分かりやすい話をすべきですよね。
その時にも古典を用いることはできません。しかし古典は言葉の基礎なので言葉を編む際にちょっとした手助けになるんです。
体感するもの
論理的に考えればそらそうだと思うでしょうけど、なかなかそれを体感できない。
普段本屋に行っている人だってそれほどわかっていない筈です。
なぜかというと本屋は売れる本しか置けないからですね。
ですから収益を考えない図書館に行ってみたほうがいいと思うんですよ。
それも町の一番大きい図書館とか。そういうところに行くと「こんなもん買う(読む)人いないよね」っていう本ばっかりあります。
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大衆文学や純粋文学は基本的に書店に置いてありますけど、古すぎる文学というのは受験に使われるようなものしか置かれません。
『今昔物語』は今でこそ有名ですけど、芥川がそれを元ネタに小説を作ったから有名になったというのも同じで、古典というのは簡単に埋もれるんです。
今のように大量に本が出てる世の中じゃもっとでしょうね。
本当に本というのはいっぱいあるんです。
数というと数量の気がしますがそうじゃなくて色んな種類がある。
テレビで国会図書館とか大きい図書館が出ることがありますが大抵古い雑誌とか、高価な特殊本ばかりです。
要するにテレビですから「見てて面白い本」しか紹介されないです。
本の面白さや、貴重な本の面白さはそんなもんじゃありません。
本は人の数だけあると言ってもいいです。
世の中の人って大衆文学ばかり読んでるんですね。
当たり前ですけど、ツイッターの読書アカウント見てて大衆文学はその時代は集中的に読まれますが、純粋文学は時代を通して読まれていきます。
それだけ普遍性があって教養豊かな人類文化の宝庫です。
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全く何も読んだことないうちから難読本に手を出すのはあまりお勧めしません。
が、ある程度、読書経験を積んだのであれば古典的名作を読んでみることをお勧めします。
古典はつぶしが効く
古典というのはあらゆるネタの元ネタになっていることが多いんです。
それの何がいいかって、たくさん読んでいくうえで
「え、この表現って何かで読んだな」
と思うことでその表現を記憶できます。
それってすごく楽しいですよね。
読書の楽しさは心が動くことじゃないですか。
ただただその本一冊だけ読んでいては感じられないものを感じることにおよって何倍にも読書が楽しいものになるんです。
ある一冊だけが詳しいというのは実質ありえなくて、どんな博士であってもいろんな本を読んでいて、それらの雑多な知識の中から専門を選んでそっから論文を書いています。
そしてそれは雑多な読書から得た雑多な言語感覚を基にしているのです。
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歴史を体感できる
古典を読むと歴史的感覚が身に付きます。
現代人は現代しか体感しかできませんが、過去の文学を読むことによって臨場感のある時代の空気を感じることができます。
当然、読み慣れていない頃は感覚のすり合わせがうまくいかない場合もありますが、人間の感覚というものはあまり変わりません。
変わるといえば言葉の使い方で、言葉の使い方が違うからこそ感覚に違和感を感じるのです。
言語感覚が身につく
言葉というのは現代語だけで成り立っているのではありません。
古い言葉を知ることによって現代使われている言葉の成り立ちを感じることができます。
「感じる」というのは「知る」というところまで論理的にわかることではないという事です。
言葉を論理的に理解する場合は、それに関する言語学的専門書を読まないと難しいですけど、言葉って別に論理で知るものじゃなくて感じるものじゃないですか。
古い言葉を知ることによって現代を「感じる」わけです。
そうすることによって感覚が身に付きます。本来的な語彙力ってそういうことだと思うんですよね。
言葉を感じることによって運用感覚が何となく身につく。ゲームのようにこれと決まったスキルが「カシャーン」と身につくものではなく、ジンワリついてくる。
これって説明できないんですよね。ですからこれを読んでいる人で「そうそうそれそれ!」と思えた人はそういう感覚を覚えている人でしょう。
その感覚をまた身に着けるために言語感覚をジンワリ身に着け続けてほしいんです。
が、いきなり古典は難しいでしょう。
ですから、現代的なもので言語感覚を得られそうなのは
宮沢賢治、夏目漱石、司馬遼太郎でしょう。
人によってはその三者を古典扱いする人もいますが、現代文で書いているので古典とは言えません。
司馬遼は基本的に長編小説が多いんですけど、長いものいきなり読みづらいと思うのでエッセイでもいいと思います。
司馬の本はエッセイばっかり読んでるっていう人は割といますがそういう人の気持ちもわかります。一冊でいろんなものが感じられます。
その三者に関してはまたブログでいつか書きたいと思いますが一応おススメだけ載せておきます。
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