純文学はイラつく
純文学がつまらないという人がたくさんいます。
ネットで見る多くの感想はイラついている感想が多いです。
たとえば
- 「最高につまらない」
- 「意味不明」
- 「わざわざ難しい言葉を使ってる」
- 「芥川賞なんて誰でも取れるもの」
- 「現代文学はレベルが低い」
そういう風に思うのは当たり前なんです。
特に有名な芥川賞をとっているものなら「おもしろいもの」と思って勘違いするから。
例えば甘いと思って飲んだ飲み物がすっぱかったらびっくりしますよね。
または麦茶だと思ったら麺つゆだったりとか。
そういうびっくりはイラつきになります。
「ちゃんとわかるようにしとけよ!」
って感じで。
芥川賞もそれと同じことが起きるんですね。
芥川賞は多くの人が思うような「おもしろい」作品ではありません。
ちょっと文学のオタクのような人が書く、新人賞です。だからこれからが期待って感じ。
さらに分かりやすく「感動」とか「納得感」があるものではありません。
文学を読み慣れている人でも「あれ?どういうこと?」と納得できないまま終わったりすることもあります。
それは、エンタメ小説のように分かりやすいものではないからですね。
解釈が簡単にできるものでは無く、読者が人生経験と読書経験で、自分で面白く仕上げる、長い詩のようなものです。
ですから高校生くらいが読むのは難しいものです。
私もちゃんと読めるようになったのは大学卒業後でした。
純文学とは「詩」
言葉や表現を文学的にアレンジしているものが多いです。
こういう文学的なアレンジのことを「異化作用」といいます。「異化」とは、普通のものをあえて変なものに変化させる方法で、文学の日常性を異常化させて、脱習慣化させる方法です。
そしてストーリーも映画になるような波打ったものでは無いものが多いです。
例えば多くの人は俳句や和歌、詩を楽しまないでしょう。
そういう詩も、一種の純文学です。というか文学の始まりは「詩」なんです。
純文学小説は詩の長いものと考えればいいです。
【関連記事】
だから多くの人は読んでも楽しめません。
ではどのように楽しめばいいかというと、言葉、表現の仕方を楽しみます。
でもそれって簡単に出来るものではありません。
例えば音楽も、一回聴いて「良い!」と思えるものも有れば、初めはそうは思わなかったけど、「何度も聴いてるうちに良さが分かるようになった」ってものがありますよね。
【関連記事】
そういう風に、色んなものを何度も繰り返し読まないと良いものは感じられません。
そういうものは、好きなものじゃないと出来ないですよね。
分からないけど読めるようになりたいという意志が無いと楽しめません。
例えばスポーツ観戦もルールが分かってないと楽しめませんよね。
純文学もただ文字を追っているだけでは楽しめません。必ず楽しめるルールがあります。
そのルールを見つける意思があれば楽しめるようになります。
それが無い人は別のものに進んだほうが良いです。
だからほとんどの人には楽しむことが出来ません。
なので全員が楽しんだほうが良いとも思いません。
人生は有限です。
そういうものを楽しめるようになりたいのであれば詩を読んでみるのもいいですし、純文学の解説本、研究書を読んで、読める人はどういう風に読んでいるのかを勉強するのがいいでしょう。
しかしほとんどの人は別のものを選びますから、必ずしも純文学を楽しまなくていいんです。
【純文学を読めるようになりたい人へのおすすめ記事】